伝記
イヴォ・アンドリッチは、1892年10月9日、当時オーストリア=ハンガリー帝国の占領下にあったボスニアのトラヴニク近郊、ドラツ村で生まれた。両親はカトリック教徒のクロアチア人で、本人は一人っ子であった。父アントゥンは銀細工師として苦労したのち、サラエボで学校の用務員として働いていたが、結核で32歳の若さで亡くなった。アンドリッチはまだ2歳であった。寡婦となり生活の手立てを失った母は、息子をドリナ川沿いの町ヴィシェグラードに住む義妹アナと、警察官であった夫イヴァン・マトコヴィッチの夫婦に預け、自らはサラエボで職を探した。子のなかった夫婦は、この子を我が子のように育てたという。
ヴィシェグラードは、セルビア人とボスニアのムスリムが多く暮らす、多民族・多宗派の小さな地方都市であった。東方と西方の文化が混じり合うこの町を、アンドリッチは後に「本当の故郷」と呼んだとされる。友人たちとドリナ川のほとりで遊び、町の名所であるメフメド・パシャ・ソコロヴィッチの橋に親しみ、土地の人々の習俗を幼いころから間近に観察した。その経験は、のちの作品の土台となった。6歳で小学校に入り、その後サラエボの中等学校に進んだ。そこで南スラヴ系の青年団体に加わり、活動した。
1914年6月にオーストリア大公フランツ・フェルディナントが暗殺されると、アンドリッチは事件への関与を疑われ、オーストリア=ハンガリー当局に逮捕・投獄された。独立を目指す秘密結社「ムラダ・ボスナ」との関わりを疑われたともいわれる。当局は確かな証拠を示せず、戦争のかなりの期間を軟禁状態で過ごし、1917年7月の大赦で釈放された。戦後はザグレブ大学やグラーツ大学で南スラヴの歴史と文学を学び、1924年にグラーツで博士号を得た。外交官としてはユーゴスラビア王国に仕え、1920年から1923年まで、そして1924年から1941年まで勤務した。フランスなどでの勤務を経て、1939年には駐独公使としてベルリンに赴任したが、1941年4月にドイツ軍を中心とする侵攻でユーゴスラビアが占領されると任を終え、ベオグラードへ戻った。
占領下のベオグラードでは、友人のアパートで静かに暮らした。その状態は、一部の伝記作家によって軟禁にも比べられている。この時期に『ドリナの橋』を書き上げたといわれ、フランス勤務時代に目を通した外交史料に着想を得た作品などとあわせて、「ボスニア三部作」と呼ばれる。『ドリナの橋』は、幼いころから親しんだヴィシェグラードの町と橋を舞台にしている。戦後は文筆に専念しつつ、共産主義体制下のユーゴスラビアで儀礼的な役職をいくつか務めた。
1961年、スウェーデン・アカデミーは「自国の歴史の主題と運命を叙述し得た彼の叙事詩的力量にたいして」ノーベル文学賞を授与した。選考では、トールキン、ロバート・フロスト、スタインベック、フォースターらの名も候補に挙がっていたとされる。受賞を機に作品は多くの言語に訳され、日本でも『ドリナの橋』『呪われた中庭』などが翻訳された。1974年の終わりごろから健康が大きく衰え、1975年3月13日、ベオグラードで世を去った。
没後、戦時中に暮らしたベオグラードのアパートは博物館となり、各地に彼の名を冠した通りができた。ただし評価は一様ではなく、ボスニアのボシュニャク人の批評家からは反ムスリム的な傾向があるとして批判され、クロアチアでも民族主義的な理由から長く敬遠された。一方、セルビアでは高く評価されている。
同じ年に亡くなった人物
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- ライオネル・トリリング (1975年没)
- ジョゼフ・ベッシュ (1975年没)
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- ガブリエル・アレスティ (1975年没)
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