伝記
シナトルケスは、パルティア王国(アルサケス朝)の王である。サナトルケスと表記されることもある。在位は紀元前76年または75年から紀元前70年または69年とされ、別の説明では紀元前93年から前87年までと、およそ紀元前77年から前68年までの二度にわたって対立王として立ったともされる。生年は明らかでなく、紀元前157年ごろとする説明もある。出自はアルサケス家に連なるとされる。「神の子」を意味する称号を用いたことから、神格化されたミトリダテス1世の子であったと考えられており、パルティア王ファーラテス2世の兄弟にあたるとされる。ただし、ミトリダテス1世の子ではなく、その弟だった可能性を指摘する歴史家もいる。長く王位から遠ざけられた理由ははっきりしない。父や兄が没したとき若かったために叔父や従兄弟に押しのけられたとも、兄ファーラテス2世がサカ族に敗れて戦死した際に捕らえられたとも推測されている。
紀元前93年、シナトルケスは叔父のミトリダテス2世に対して反乱を起こし、スサ地方を拠点とした。叔父を破ったとされ、貨幣には「勝利者」を意味する称号が刻まれた。スサとメディアのエクバタナで貨幣を発行したことから、王国の中央部と東部を押さえたことがわかる。ミトリダテス2世の死後はその子ゴタルゼスが戦いを続け、アルメニア王ティグラネス大王を岳父として味方につけた。この内戦の詳細は乏しいが、ベヒストゥンの記念碑から、紀元前87年ごろにシナトルケスがスサを追われたことが知られる。
その後の経緯は史料が断片的で定まらない。別の説明では、シナトルケスはもともとサカ族のもとで暮らしており、王国が混乱して王権が弱まった時期に、サカ族の助けを得て八十歳で王位を取ったとされる。また、紛争の時代に終止符を打つため、遊牧民に支持された彼が呼び戻されたともいわれる。バビロニア出土の粘土板には、紀元前76年または75年の記録として、アルシャカンという名の王と、その姉妹で妻のイスブバルザという王妃の名が現れ、この王がシナトルケスと思われている。この時期、アルメニア王ティグラネス大王は、パルティアの弱体化に乗じてかつてミトリダテス2世に譲っていた「七十の谷」を取り戻し、メディア・アトロパテネ、ゴルディエネ、アディアベネ、オスロエネ、メソポタミア北部へも進出した。紀元前72年または71年の冬には、ポントス王ミトリダテス6世がローマと戦うための援助を求めたが、シナトルケスは老齢を理由に断ったという。
貨幣の表面のシナトルケスは、鹿の列で飾られた冠をかぶっている。鹿はサカ族の宗教的象徴で、王位に就く助けとなった彼らを示すと解釈されている。サモサタのルキアノスは著作『長寿者たち』で、彼を当時の八十歳を超える王の一人に数えている。また、ギリシアの歴史家プレゴンによれば、彼は第177オリンピア紀の3年目、すなわち紀元前70年から69年に世を去った。跡は子のファーラテス3世が継いだ。この子は引き続き対立するアルサケス16世との戦いを続けたとされる。シナトルケスの系統はパルティアが終わる紀元224年まで王国を治めたとされ、現代の歴史家オルブリフトはこの王家を「シナトルケス朝」と呼んでおり、この家系はサカスタンのスーレーン氏の支持を受けたとされる。現代の研究者ガザーニーは、伝説上のイランの王ザウ・タフマースプの物語に、シナトルケスの生涯の反響があるとの仮説も立てている。
同じ年に亡くなった人物
- オエノマウス (紀元前70)
- ミトリダテス1世 (コンマゲネ王) (紀元前70年没)
- ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官) (紀元前70年代没)
- Ganicus (紀元前70)
- マルクス・アントニウス・クレティクス (紀元前70年代没)
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