伝記
アントニオ・セーニは、1891年2月2日、サルデーニャ島のサッサリで、地主の家に生まれた。父チェレスティーノは弁護士でサッサリ大学の教授、市議会や県議会の議員を務め、1910年代初めには助役でもあった。母アンネッタ・カンプスは主婦である。裕福でサルデーニャの政治にも関わる家で育った。サッサリ大学で学び、在学中にカトリック・アクションの支部を設立した。1913年に優等で卒業し、論文はローマ法における民事訴訟を扱った。ローマで民事訴訟法の学者キオヴェンダに学んでお気に入りの弟子となり、その事務所で出会ったカラマンドレイとは、生涯続く親しい友になった。第一次世界大戦では砲兵将校として入隊したが、数か月で除隊し、弁護士の仕事に戻った。1920年にペルージャ大学の法学教授となり、学者の道を歩み始めた。1921年には、裕福な地主の娘ラウラ・カルタ・カプリーノと結婚して、4人の子をもうけた。その一人マリオは、のちに政治家となった。
1919年にドン・ルイジ・ストゥルツォが率いるイタリア人民党に参加し、1923年には党の全国委員に任命された。1924年の総選挙には立候補したが落選し、1926年にムッソリーニが政治組織を解散させるまで党員にとどまった。それから17年間は政界を離れ、パヴィア、ペルージャ、カリアリ、サッサリの各大学で民事訴訟法や農業法を教えて暮らした。1946年から1951年にはサッサリ大学の学長も務めた。1943年にムッソリーニ体制が崩壊すると、人民党を継ぐキリスト教民主党の結党に加わり、1944年12月に第2次ボノーミ内閣で農業次官に任命された。
1946年の選挙で制憲議会議員に選ばれ、7月13日に第2次デ・ガスペリ内閣の農相となった。農業生産の増加に力を入れ、農業契約の改革を試みたが、保守派と党内の多くに強く反対されて失敗し、その挫折が農地改革の進展を早めた。1950年10月に議会を通った農地改革は、マーシャル・プランの資金で一部がまかなわれた。強制的な収用によって農業労働者に土地を分け与え、小規模な事業者にしようとするものであった。地主だったセーニ自身も、サルデーニャの領地の大半を収用するよう命じ、「白いボルシェビキ」と呼ばれた。もっとも、近年の歴史家は、実際にはセーニの政令が地主に有利に働いたと指摘している。1951年7月の内閣改造で文部大臣に移り、識字率の向上や教育の改善、新しい学校の建設に力を注いだが、高校卒業試験を大学の入学試験に替える案は退けられた。
1955年に首相となって1957年まで務め、のちにファンファーニ内閣で国防相を務め、1959年から1960年に再び首相兼内相となった。外相として1961年6月には、日本の賓客として夫人とともに訪日した。1962年に共和国の第4代大統領に選ばれ、サルデーニャ出身の初の国家元首となった。大統領在任中の1964年8月7日に脳血栓で倒れ、12月6日に辞任した。共和制への移行後、任期途中の辞任はこれが初めてであった。この間、後任のサラガットが12月29日に選ばれるまで、上院議長のメルツァゴーラが憲法の規定に基づき大統領職を代行した。その後は闘病生活を送り、1972年12月1日、ローマの病院で、腎臓病疾患による心臓発作で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- エルヴィン・シュトレーゼマン (1972年没)
- ジョゼフ・コーネル (1972年没)
- エドワード・クック (陸上選手) (1972年没)
- アベイド・カルメ (1972年没)
- フェオドラ・フォン・ザクセン=マイニンゲン (1890-1972) (1972年没)
同じ地域に関係する人物
- ヌンチオ・マラソンマ (1974年没)
- ハドリアヌス1世 (ローマ教皇) (795年没)
- ジョゼフ・フェッシュ (1839年没)
- アーミン・T・ウェグナー (1978年没)
- ウェルキンゲトリクス (紀元前46年没)