伝記
カリマン2世は、第二次ブルガリア帝国の皇帝で、1256年にごく短い期間だけ在位した。コロマン2世とも呼ばれるが、これは正確さに欠ける呼び方とされる。正式にはカリマン・アセン2世という。生まれた年はわかっていない。父は、皇帝イヴァン・アセン2世の弟で、セヴァストクラトルの位にあったアレクサンデルで、祖父はイヴァン・アセン1世にあたる。母は不明で、セルビアの公女とする見方もあったが、その説は、ボヤナ教会の寄進者であるセヴァストクラトルのカロヤンと本人を取り違えたことによる誤りである。カロヤンは教会の銘文から1259年より前には亡くなっていないことがわかり、カリマンの死とは時期が合わない。
名前の読み方についても議論がある。ギリシア風の読みがカリマンで、ハンガリー起源の名とみてコロマンと読むべきだとする意見もある。ラテン語の文書では、カトリックの聖人コロマンにならってコロマンと記される。
1250年代の半ば、ブルガリアの貴族たちはミハイル・アセンに対する陰謀をめぐらせた。1256年、カリマンは、都タルノヴォの近郊で行われた狩りの最中に、いとこにあたるミハイル・アセンを殺害し、帝位を奪った。殺されたミハイル・アセンはカリマンのいとこだと伝えられ、1258年には、ブルガリアの王は叔父の子に殺されたとアルメニアの司祭も記している。即位するにあたって、帝位に世襲の形を与えるため、殺されたミハイル・アセンの未亡人と結婚した。彼女はロスチスラフ・ミハイロヴィチの娘で、アンナ、またはエルジェーベトといわれる。しかしカリマンは帝位を保てなかった。娘の父ロスチスラフが、領地のベオグラードからタルノヴォへ軍を進めたため、カリマンは多くの支持者に見捨てられ、都を捨てて逃げた。
ロスチスラフはタルノヴォに入り、ブルガリア皇帝の位を名乗った。しかし地元の貴族には受け入れられず、娘を連れてベオグラードへ戻った。その後、ミハイル・アセンの義兄弟にあたるミツォ・アセンが皇帝の位についた。一方カリマンは、支持者を失ったまま、逃亡の末に、事情のはっきりしない状況で殺された。1256年のうちか、1257年の初めに死んだとされ、結婚した妻との間に子はなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ベルンハルト (ケルンテン公) (1256年没)
- バトゥ (1256年没)
- マリー・ド・ブラバン (1226-1256) (1256年没)
- ミハイル2世・アセン (1256年没)
- 藤原頼嗣 (1256年没)
同じ地域に関係する人物
- ボードゥアン1世 (ラテン皇帝) (1205年没)
- エレナ・ブガルスカ (1374年没)
- イヴァン・アレクサンダル (1371年没)
- イヴァン・アセン1世 (1196年没)
- イヴァン・アセン2世 (1241年没)