伝記
イヴァン・アレクサンダルは、1371年2月17日に没した第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール)で、在位は1331年から没年までである。ブルガリア皇帝ミハイル3世シシュマンの甥にあたり、父はデスポト(僭主)スラツィミル、母はミハイル3世の姉妹ケラツァ・ペトリツァである。1330年ごろにはデスポトとしてロヴェチを治めていた。この年、父や義父のワラキア公バサラブとともにセルビア攻撃に加わったが、ヴェルブジュドの戦いで敗れた。この敗戦のあと東ローマ軍の侵入もあって国は危機に陥り、1331年に首都タルノヴォでクーデターが起こって皇帝イヴァン・ステファンが廃位され、首謀者たちはイヴァン・アレクサンダルを帝位に就けた。
新帝はアドリアノープルに進軍して北トラキアなどを取り戻し、1332年の復活祭の日にセルビア王ドゥシャンと同盟を結び、姉妹のエレナがドゥシャンと結婚することが決まった。同じ年に長子ミハイルを共治帝とし、1337年にはほかの息子たちも共同統治者とした。ミハイル3世の弟ベラウルがヴィディンで反乱を起こし、1332年夏には東ローマ皇帝アンドロニコス3世が攻め込んだが、ルソカストロの戦いで勝ち、和平を結んだ。同盟の証としてミハイルとアンドロニコス3世の娘マリアの婚約が決まり、1339年に結婚した。
1340年代の初め、東ローマとの関係は悪化し、ブルガリアは東ローマが呼んだトルコ系の軍にドナウの河口付近を荒らされ、アドリアノープル近郊の戦いでも勝てなかった。1341年から1347年の東ローマの内戦では、皇太后アンナとヨハネス5世を支持し、1344年にフィリッポポリスなどの城砦を譲られた。1345年にはドゥシャンがセルビア人の皇帝を称したが、ブルガリア総主教シメオンがその式に出席したことから、ブルガリアはセルビアに協力的だったとみられる。同じ1345年に妃テオドラを修道院に入れて離縁し、ユダヤ人のサラと再婚した。サラは改宗してテオドラと改名した。1346年から1354年にかけて、トルコ系の勢力が5回もブルガリア領に侵入し、ペストも流行した。1349年に三男イヴァンが戦死し、1350年に反異端の宗教会議を開いた。1355年ごろには長男ミハイルもトルコ軍との戦いで亡くなった。
1356年、最初の妃の子で唯一生き残っていたイヴァン・スラツィミルにヴィディンの統治を命じ、新しい妻との子らを共同統治者とした。1359年から1360年には再び反異端の宗教会議を開き、ボゴミル派などが弾劾された。14世紀の半ばから、ハンガリー王ラヨシュ1世の攻撃の目標になり、1364年にはフィリッポポリスがオスマン帝国の手に渡り、1365年にはヴィディンがハンガリーに占領されて、イヴァン・スラツィミルは家族とともに捕らえられた。1366年にブルガリアが東ローマ皇帝ヨハネス5世の通過を拒むと、サヴォイア伯アメデーオ6世の十字軍が港湾都市を陥落させ、和平を余儀なくされたが、東ローマから18万フロリンが支払われた。ドブルジャとワラキアの君主にこの補償金や領土を与えると提案して助力を得て、ヴィディンを奪回し、1369年にイヴァン・スラツィミルが統治者に返り咲いた。
1371年2月17日、反オスマンの連合の準備を進めるなかで没し、タルノヴォはイヴァン・シシュマンが、ヴィディンはイヴァン・スラツィミルが相続した。治世には教会と修道院の建設・改修が多く行われ、壁画には寄進者としての彼の肖像もある。ブルガリアの文化はこの時代に「第二の黄金時代」と呼ばれることもある。
同じ年に亡くなった人物
- シメオン・ウロシュ・パレオロゴス (1371年没)
- ウバイド・ザーカーニー (1371年)
- Adelaide of Hesse (1371年)
- ヴカシン・ムルニャヴチェヴィチ (セルビア王) (1371年没)
- ジャンヌ・デヴルー (1371年没)
同じ地域に関係する人物
- サワ (セルビア大主教) (1236年没)
- コンスタンティン・ティフ (1277年没)
- ペタル4世 (1197年没)
- ゲオルギ2世テルテル (1322年没)
- カリマン1世 (1246年没)