HISTORICAL PERSON · 1256年没

ミハイル2世・アセン

第二次ブルガリア帝国の皇帝。異母兄の死後に年少で即位して近隣諸国に領土を奪われたが、成年後は自ら軍を率いてニカイアと戦い、ロドピ山脈地方の城砦を回復した。1256年、狩猟中に政敵に殺害された。

生涯
1256年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ミハイル2世・アセンは、第二次ブルガリア帝国の皇帝である。1238年から1241年のあいだ、おそらく1239年に、イヴァン・アセン2世とエピロス専制侯国の王女イレネの子として生まれた。父は1241年前半に没し、異母兄のカリマン1世が継いだが、カリマンは1246年の8月か9月に急死した。毒殺を疑う噂があったという。ミハイルはその跡を継いだが、7、8歳の少年だった。幼い間は母イレネか、義兄のセヴァストクラトルであるペタルが政務を担ったという説がある。

幼い皇帝が立ったと知ると、近隣の国々がブルガリアに攻め込んだ。ニカイア皇帝ヨハネス3世はセレスを奪い、メルニクでは住民の支持を得て、ヴァルダル川流域の城砦をすべて占領した。エピロスの君主ミハイル2世も西マケドニアを占領し、ハンガリーはベオグラードを併合した。1246年末か翌年初めの和平でブルガリアはニカイアの征服を認め、ラテン帝国と戦うニカイアに協力することにもなった。1247年8月にはブルガリア軍が、ニカイアによるラテン帝国のトラキア侵攻を助けた。

1253年から54年にかけて、ブルガリアはドゥブロヴニクと同盟し、ステファン・ウロシュ1世のセルビアへ攻め入った。軍はセルビアの奥深くまで進んだが、征服は果たせなかった。この同盟の取り決めからは、ペタルが大きな領域をほぼ独立して治めていたこともうかがえる。1254年11月4日にヨハネス3世が没すると、ミハイルはマケドニアやロドピ山脈地方に攻め入って失地を回復した。現地のブルガリア語を話す住民は、異なる言葉を話す者の軛を払いたいと、この侵攻を支持した。ミハイルはハンガリーとの平和のため、ロスチスラフ・ミハイロヴィチの娘と結婚した。名はアンナともエルジェーベトともいう。

1255年の初め、ヨハネスの子テオドロス2世が反撃に出て、ミハイルは抵抗できず、ニカイア軍はスタラ・ザゴラを奪った。春にはロドピ山脈の城砦の多くが占領された。1253年から55年にモンゴルを訪れたルブルックは、ミハイルの国々をモンゴルに貢ぎ物を納める国に数え、この戦いについては、力をそがれたただの少年と記している。1256年の春、ミハイルはクマン人の兵とともにトラキアに攻め込んだが敗れ、6月に義父に頼んでニカイアとの仲介をしてもらった。テオドロスは、ミハイルがブルガリアの求めていた土地の喪失を認めてはじめて和平に応じ、マリツァ川の上流が両国の国境と定められた。この和平を不満とした貴族たちは、従兄弟とも甥ともされるカリマンを擁立した。1256年の秋、ミハイルはタルノヴォ近郊で狩りをしているときに政敵に殺された。カリマンらに襲われて傷を負い、1256年末か翌年初めに没したともいう。妃は、帝位を継いだカリマン2世と再婚した。

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