伝記
藤原頼嗣は、鎌倉時代中期の公卿で、鎌倉幕府の5代将軍である。九条頼嗣とも呼ばれる。五摂家の一つ、九条家の出身で、摂家将軍にあたる。官位は従三位、左近衛中将であった。鎌倉幕府4代将軍の藤原頼経と、藤原親能の娘である大宮殿の間の子として、鎌倉で生まれた。
寛元2年(1244年)の春、鎌倉の空に不思議な現象がいくつも起こり、父頼経を深く悩ませた。同じ年、当時の執権北条経時を烏帽子親として元服し、4月28日に従五位上・右近衛少将に叙任され、征夷大将軍の宣下を受けた。父頼経の譲りによって、わずか6歳で将軍に就任したのである。翌寛元3年(1245年)には、7歳で、経時の妹である16歳の檜皮姫を正室に迎えた。この年の7月には父頼経が出家して僧となった。檜皮姫は宝治元年(1247年)5月に亡くなっている。寛元4年(1246年)7月、宮騒動によって父頼経が執権北条時頼に京へ追放され、翌宝治元年6月の宝治合戦では、将軍家を擁する三浦氏らが滅んだ。それでも頼嗣は将軍として鎌倉にとどまった。その間、官位は進み、寛元4年11月に従四位下、宝治2年(1248年)8月に従四位上、建長元年(1249年)1月に正四位下となり、6月には左近衛中将に転じた。
結果として父とともに北条家と対立する関係になったが、時頼は頼嗣の教育に熱心だった。中原師連と清原教隆が学問を、小山長村、安達義景、三浦光盛、三浦盛時が武術を教えるよう推挙した。御家人の若い息子たちの中から学問を好む子を選んで学友として仕えさせようと、二階堂行方と武藤景頼にそうした人材を集めさせている。頼嗣も勉学への意欲は高く、建長2年(1250年)2月には、帝王学の教科書である『帝範』を教材とした勉強会を開き、時頼や清原教隆が参加したことが『吾妻鏡』に記されている。このあと時頼は、『貞観政要』を書き写したものを頼嗣に送っており、頼嗣にそれを学んでほしいという願いから進呈したものと考えられる。建長3年(1251年)6月13日には従三位に昇った。
しかし建長3年12月、了行、矢作常氏、長久連ら宝治合戦の残党による謀叛事件が起こり、これに頼経が関係したとされた。翌建長4年(1252年)2月、幕府は後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王を新しい将軍にすることを決め、20日に頼嗣は14歳で将軍職を解任された。祖父の九条道家も関与を疑われ、まもなく亡くなっている。3月、頼嗣は母の大宮殿や弟とともに京へ追放された。
それから4年後、康元元年(1256年)8月に父頼経が亡くなり、続いて頼嗣も9月25日に赤斑瘡のために亡くなった。享年18であった。
同じ年に亡くなった人物
- マファルダ・デ・ポルトゥガル (1256年没)
- ベルンハルト (ケルンテン公) (1256年没)
- 藤原頼経 (1256年没)
- ペドロ・ノラスコ (1256年)
- Renaud de Vichiers (1256年)