伝記
アレグザンダー2世は、1214年から1249年までスコットランド王であった人物である。生年は1189年とする記述と1198年とする記述があり、没年は1249年7月8日とされる。父はウィリアム1世、母はエルマンガルド・ド・ボーモンで、その長男に当たる。家系はカンモア朝の祖マルカム3世に遡り、その二度目の結婚相手であるイングランドの王女マーガレットの系統に属する。父は息子への継承に疑いを抱いていたらしく、理由ははっきりしないが、イングランドの継承危機が影響した可能性が指摘されている。1201年10月12日の貴族会議では、3歳のアレグザンダーを世継ぎと認めさせる支持を取り付けた。これによって、長く推定相続人であった弟のハンティンドン伯デイヴィッドは脇へ退けられ、伯が世継ぎとして認めたのは1205年のことだったという。
少年期には、イングランドとの関係悪化に翻弄された。1209年、ウィリアム1世とイングランド王ジョンはノラム城で軍を対峙させ、同年8月7日に結ばれた条約はスコットランドに著しく不利だった。父はジョンへの臣従の再確認、1万5千マルクの支払い、高位の人質の差し出しを求められ、条項の一部を隠そうとしたほどである。11歳に近かったアレグザンダーも、将来の王国についてジョンに臣従を誓わされ、姉妹はジョンの保護下に置かれた。
1214年、父の死を受けて16歳で王位を嗣いだ。治世の初めにはジョンと対立し、第一次バロン戦争でイングランドの反乱貴族を支持して、主にイングランド北部で戦った。1216年にジョンが没すると、その子ヘンリー3世と和平を結び、両王国の間でより外交的な路線をとるようになった。1221年にはヘンリー3世の妹ジョーンを王妃に迎え、友好関係を復活させたが、二人の間に子はなかった。1236年(1237年とする記述もある)にはヨーク条約を結び、イングランドとの国境線を確定させた。この線は、おおむね長く続くものとなった。
外交上の懸案を片づけたアレグザンダーは、父が整えた行政機構を活用して内政を充実させた。統治の基盤が固まっていない王国で、北部のロスやモレー、南西部のギャロウェーで繰り返し起きた反乱を鎮め、王位を争ってきたマクウィリアム家の血統を最終的に断った。それまでの王が限られた影響力しか及ぼせなかった地域にも、王権を広げていった。1238年に王妃ジョーンを亡くすと、翌1239年にフランス貴族アンゲラン3世・ド・クシーの娘マリーと再婚し、大陸との結び付きを強めた。ヘンリー3世はこれをイングランドへの敵対行為と見なして言いがかりを続けたが、1244年にニューカッスルで和解した。
1244年以降の晩年、アレグザンダーは西海岸での勢力拡大に努め、アーガイルやヘブリディーズ諸島の、ノルウェーの影響を受けた領主たちと対峙した。最後には、ノルウェーの領有下にあったヘブリディーズ諸島の奪還を目指してスコットランド西部へ軍を進めた。しかし、その途上のケアララ島で1249年に没した。後妻との間の一人息子アレグザンダー3世(1241年生まれ)が、7歳で王位を嗣いだ。統一され、領土の輪郭も明確になったスコットランド王国の形成において、その治世は重要な時期であったと評価される。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン1世 (ドルー伯) (1249年没)
- Pietro della Vigna (1249年)
- ヤコポ・ティエポロ (1249年没)
- レーモン7世 (トゥールーズ伯) (1249年没)
- 宋慈 (1249年没)
同じ地域に関係する人物
- Sorley MacLean (1996年没)
- ロバート3世 (スコットランド王) (1406年没)
- ジョニー・ダンフリーズ (2021年没)
- シャーロット・クーパー (1966年没)
- ジミー・スチュアート (2008年没)