HISTORICAL PERSON · 1249年没

宋慈

南宋の官僚で、1217年に科挙に合格して進士となり、司法官僚として徹底した現場調査で冤罪を晴らした。1247年にその経験から、世界初の本格的な法医学書とされる『洗冤集録』を著した。

生涯
1249年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(福建省 / 建陽区)
出典
世界地図
中華人民共和国(福建省)

伝記

宋慈は、中国の南宋に仕えた官僚で、字は恵父という。世界初の本格的な法医学書とされる『洗冤集録』の著者として知られる。1186年に建寧府建陽県、現在の福建省に生まれた。儒学を修めた役人の家柄で、父は裁判官をつとめていた。1205年に都の太学に入って文学を学び、1217年に科挙に合格して進士となった。

官僚としての経歴は順調だった。最初は浙江で地方官をつとめ、のち江西に任じられると、農民の反乱を鎮めるだけでなく、官の穀物倉の食糧を配って、その原因をも取り除いたことで名を知られた。1238年には飢饉に苦しむ東莞へ送られた。そこでは裕福な者ほど多くの米を抱えていることがわかった。そこで住民を米の蓄えによって5つの組に分け、蓄えの多い者から余った米を取り、貧しい者に分け与えたという。

1239年に初めて司法の職につき、広東の牢獄を預かった。当時の中国では、役人である裁判官が、審理にとどまらず、検察、弁護、予審、捜査、さらに法医学の鑑定までを一手に引き受けた。一方で医者の地位は比較的低く、遺体の検査に関わることも、法律上の問題で呼ばれることもほとんどなかった。このころの官界は腐敗して賄賂が横行し、事件の記録がゆがめられて無実の人が有罪になったり、殺人事件の遺体が自殺として処理されたりすることがしばしばあった。宋慈は徹底した現場の調査を重んじ、殺人や自殺、事故死などおよそ200件の事件を解決し、多くの無実の囚人を釈放した。事件に臨む心構えとして、真実を重ねて追究して明らかにし、ほんの小さな証拠をも軽んじてはいけないと述べている。1241年に漳州の裁判官となり、軍政の責任者を兼ね、1245年には知事になった。宋慈は、思いやりと冷静さを兼ね、論理と技術を尽くして法医学の問題に取り組む優れた官僚であった。

1247年、湖南へ呼ばれて刑事事件を処理するなか、これまでの経験を生かして、検死の方法とその対処を記した『洗冤集録』を書き上げた。宋慈自身の序文によれば、この本は1247年に完成し、木版で印刷された。1249年には、4つの省にまたがる刑事事件を巡回して扱う裁判官に任じられ、広東の最高責任者となったが、その任にあって64歳で没した。3月7日、西暦では4月13日のことである。その働きは当時の皇帝である理宗の耳にも達しており、すぐに勅使が遣わされて、霊前で官位が贈られたという。

『洗冤集録』は、現存する最古の版が元の時代の1308年のものである。中国では以後も多くの版が出され、同じ種類の手引書の手本となり、20世紀の初めまで公式の参考書として使われた。朝鮮には1384年から伝えられ、日本にも伝わった。

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