伝記
ガイウス・マリウスは、共和政ローマ後期の政務官である。紀元前157年に生まれ、前86年1月13日に没した。同名の息子である小マリウスと区別して、大マリウスとも呼ばれる。地方出身の新参者でありながら、キンブリ・テウトニ戦争で歴史的な勝利を収め、民衆の支持を得て合計七回も執政官に就いた。彼の軍制改革は帝政時代を含めて長くローマの軍事制度として受け継がれ、その活躍と改革はローマを帝政へ導く遠因の一つになったとされる。かつては民衆派の首領として閥族派と争ったと説明されたが、そう単純な対立ではなかったとも考えられている。
プルタルコスによれば、生まれは現在のアルピーノにあたるアルピヌム市の村で、父は貧しい労働者だったという。ただ実際には、キケロ家などと並んで土地で支配的な地位にあった騎士階級の出身と考えられている。少年の頃、落ちてきた鷲の巣を受け止めると雛が七羽いて、それが七回の最高権力の予兆とされたと、プルタルコスは記している。無骨な人物で、上流階層の嗜んだギリシア文化には興味を示さなかったが、野心と矜持の点では彼らに劣らなかった。
紀元前134年、小スキピオの率いるヌマンティア戦争の遠征軍に加わって騎兵を務め、厳格な軍隊生活を受け入れ、敵との一騎打ちに勝って小スキピオの好意を得たとされる。後継者を問われた小スキピオが、マリウスを指して「おそらくこの男だろう」と答えたといい、彼はそれを死ぬまで大事にしたという。故郷で政務官に立候補して敗れた後、紀元前123年ごろに士官に選ばれ、前121年ごろに財務官を務めたと考えられている。紀元前119年には護民官となり、投票の秘密を守るために投票橋を狭くする法を平民会の決議で成立させた。反対した執政官コッタとメテッルス・デルマティクスを投獄すると脅したという。その後は按察官選挙で二度落選し、紀元前115年の法務官選挙には最下位で当選して、選挙法違反で訴追されたものの、有罪無罪が同票となって難を逃れた。翌紀元前114年には遠ヒスパニアを任され、山賊を防いだという。この地でも庇護と報恩の関係を広げたと推測される。紀元前111年ごろ、名門ユリウス氏族の娘ユリアと結婚した。彼女はカエサルの叔母にあたり、カエサルは自身の栄達に亡きマリウスの名を利用した。
当時、名門カエキリウス・メテッルス家は、紀元前119年から前109年の間に九人の執政官と二人の監察官を出すほど隆盛を誇っていた。プルタルコスによれば、マリウスの護民官当選もこの家の支援によるといい、その後の彼は同家の下でアフリカへ赴いた。護民官以降の選挙結果の振るわなさは、貴族層から新参者への反感によるものとも考えられている。紀元前112年に元老院がヌミディア王ユグルタに宣戦すると、ローマの有力者たちの無能と贈賄の疑いが露わになった。紀元前109年、執政官メテッルス・ヌミディクスの副官として従軍したマリウスは勝利に貢献したが、執政官への野心を募らせ、相談を退けられて反感を強めた。メテッルスが戦争を故意に長引かせていると主張し、自分が執政官になれば短期間でユグルタを捕らえるか殺すと豪語したと、サッルスティウスらは伝える。紀元前108年、彼はローマ市へ戻って執政官選挙に立候補した。キケロは、法務官就任から六年以上が空いていたため当選の可能性はほとんどなかったとしている。
同じ年に亡くなった人物
- 金日磾 (紀元前86年没)
- アリアラテス9世 (紀元前86年没)
- アルテミタのアポロドロス (紀元前86)
- クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前117年の執政官) (紀元前 86年)
同じ地域に関係する人物
- アメデオ・アマデイ (2013年没)
- Fernando Cento (1973年没)
- レオ11世 (ローマ教皇) (1605年没)
- Castulus (286年没)
- イザベラ・フォン・バイエルン (1924年没)