伝記
クィントゥス・ムキウス・スカエウォラは、共和政ローマの政治家・法学者で、紀元前117年の執政官である。鳥占官を務めたため、スカエウォラ・アウグルとも呼ばれる。父は紀元前174年の執政官クィントゥスで、平民系のムキウス氏族に属した。一族は軍事よりも法学や聖職の分野で知られ、従兄弟たちには最高神祇官や法律書の著者がいた。生年は確定せず、父の執政官就任後の生まれとも、紀元前160年ごろとも推定される。父子の執政官就任には57年の隔たりがあり、青年期の年齢についても一致した推定はない。若くしてスキピオ・アエミリアヌスの知的な集まりに加わり、ギリシャ文化や穏健な改革への関心を共有した。
紀元前155年にカルネアデスがローマを訪れたときには、多くの若者とともに講義を聴いた。哲学ではパナイティオスに学び、ストア派に親しんだ。遅くとも紀元前140年までには、スキピオの親友ガイウス・ラエリウス・サピエンスの長女ラエリアと結婚した。紀元前129年かそれ以前に終身の鳥占官となった際には、年上の義兄弟ガイウス・ファンニウスも候補だったが、義父の支持を得た。紀元前128年には護民官、紀元前125年には按察官に就き、遅くとも紀元前120年までに法務官を務めたと考えられる。
アシア属州の総督として赴任する途中、アテナイやロードスに立ち寄り、修辞家たちに会った。帰国後の紀元前119年、または翌年前半には、騎士階級のティトゥス・アルブキウスから不当利得の返還を求めて訴えられた。二人には以前から対立があり、ギリシャ文化に傾倒するアルブキウスを、アテナイでギリシャ人として挨拶してからかったことが恨みの一因とされる。告訴側は友人の出納帳を用いて追及したが、自ら弁護して無罪となった。裁判の勝利もあって執政官選挙に当選し、紀元前117年にはルキウス・カエキリウス・メテッルス・ディアデマトゥスとともに執政官を務めた。
退任後も元老院で強い発言力を保った。紀元前100年、元老院と護民官サトゥルニヌスの争いが激しくなった際には、すでに病身でありながら槍に体を支えて民会集会所へ現れたという。娘婿には弁論家ルキウス・リキニウス・クラッススがおり、紀元前94年か93年に、その娘である孫が小マリウスと結婚した。紀元前88年にスッラがローマを占拠してマリウスを国家の敵とするよう求めると、ローマとイタリアを救った者を敵とは認められないとして反対した。ただし同調する者はなかった。その後まもなく死去したと考えられ、80歳を超えて生きたとされる。
生涯の中心的な関心は法学にあった。法廷で弁論することは多くなかったが、相談を求める人には無料で助言した。正式に生徒を取る形ではなく、依頼人への回答を熱心な聴講者に聞かせることで教え、クラッススや若いキケロも市民法を学んだ。哲学的な分類を法的な思考に取り入れたことが功績とされる。キケロは、必要に応じて弁論はしたものの、弁論家としてより市民法の知識と判断力に優れていたと評した。スカエウォラの言葉の巧みな配置は、詩人ルキリウスにも称賛された。ルキリウスは、その言葉を舗道に巧みに埋められた四角い石にたとえている。
同じ年に亡くなった人物
- アリアラテス9世 (紀元前86年没)
- 金日磾 (紀元前86年没)
- ガイウス・マリウス (紀元前86年没)
- アルテミタのアポロドロス (紀元前86)
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