伝記
金日磾(きん じつてい)は、前漢の政治家・軍人である。紀元前134年に生まれ、紀元前86年9月29日に没した。字は翁叔。もとは匈奴の休屠王の太子で、漢の武帝から金の姓を授けられた。死後の諡は敬侯、封号は秺侯である。
生家は匈奴の王族で、休屠王は匈奴の単于の下にあって、渾邪王とともに漢との西南の境、現在の甘粛の中部から西部の防衛を担っていた。紀元前121年、武帝は霍去病を派遣して匈奴を攻めさせ、霍去病は大勝して、休屠王が天を祭るために用いていた黄金の像などを手に入れた。単于は強く不満を抱き、二人の王を呼び出して処刑しようと考えたため、彼らは恐れて漢への投降を企てた。ところが霍去病が迎えに来ると休屠王は気持ちを変えて引き返そうとし、渾邪王に殺された。渾邪王は部下を連れて漢に降り、武帝から列侯に封じられた。
休屠王が殺されたため、14歳の太子であった日磾は、母や弟の倫とともに官の奴隷とされ、馬番として宮中の馬を扱う役に就いた。やがて宴席で武帝が馬を検分した際、ほかの馬番たちが居並ぶ美しい後宮の女性たちに見とれるなか、日磾だけはあえて目を向けなかった。武帝は身長八尺二寸という堂々たる体格と、その慎み深さ、世話をした馬の肥えて丈夫なさまに感心し、その日のうちに衣服を与えて馬監に取り立てた。以後、侍中・駙馬都尉・光禄大夫と進み、武帝の近臣となった。武帝は、休屠王が黄金の像で天を祭っていたことを思い出して、日磾に金の姓を与えたという。母が亡くなると、武帝はその肖像を描かせて甘泉宮に掲げ、休屠王の妻として遇した。日磾は毎日その絵に向かい、泣いて祈りをささげたとされる。武帝から宮女を賜っても近づこうとせず、後宮に入れるよう勧められても応じなかった。二人の息子は武帝に寵愛されたが、成長した長男が宮中の女官にたわむれているのを見た日磾は、怒ってこれを殺した。武帝は初め怒り悲しんだものの、日磾の誠実で忠義な人柄をあらためて知り、いっそう信頼を深めたと伝えられる。
紀元前91年には江充と戻太子劉拠の事件が起こった。その後、紀元前88年、江充の親友であった馬何羅らは江充一族が誅殺されたことに不安を抱いて武帝の暗殺を企てた。馬何羅が刃物を持って武帝の寝所へ入ろうとするのを見つけた日磾は、組み打ちの末に取り押さえ、ほかの衛兵が来るまで抑え込んだ。この働きによって、日磾は忠節をたたえられるようになった。紀元前87年、武帝は病床に霍光・金日磾・上官桀を呼び、のちの昭帝となる幼い皇太子の補佐を託した。霍光は初め日磾のほうが適任だとして地位を譲ろうとしたが、日磾は、自分は外国人であり、そのようなことをすれば漢が匈奴に軽んじられると言って断った。そこで霍光が筆頭となり、日磾は車騎将軍、上官桀は左将軍となった。武帝は遺言で馬何羅の件を理由に三人を列侯にしようとしたが、日磾は昭帝の年が若いことを理由に辞退したとされる。
紀元前86年の晩秋、日磾は重い病にかかった。霍光が昭帝と相談し、死の床にある日磾を秺侯に封じた。日磾は翌日に没し、のちに敬侯と諡され、武帝の陵墓である茂陵の近くに葬られた。侯位は子の金賞が継ぎ、金賞と弟の金建は昭帝と年が近く、起居を共にしたという。弟の倫は黄門郎となったが早世し、倫の子の金安上の代から一族は栄えた。後漢末の金旋・金禕父子は日磾の末裔とされ、新羅の王家も日磾の子孫と記す金石文があるという。
同じ年に亡くなった人物
- アリアラテス9世 (紀元前86年没)
- クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前117年の執政官) (紀元前 86年)
- ガイウス・マリウス (紀元前86年没)
- アルテミタのアポロドロス (紀元前86)
同じ地域に関係する人物
- 秋瑾 (1907年没)
- フレデリック・タウンゼント・ウォード (1862年没)
- 端宗 (宋) (1278年没)
- 魏源 (1857年没)
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