伝記
ルキウス・ポルキウス・カトは、紀元前2世紀後期から紀元前1世紀初期にかけての共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前89年に執政官(コンスル)を務めたが、同盟市戦争のさなか、フキネ湖の戦いで戦死した。
カトはプレブス(平民)のポルキウス氏族の出身である。この氏族はラティウムの都市トゥスクルムの出と考えられている。プルタルコスは氏族名ポルキウスをラテン語で豚を意味する語(ポルクス)と結びつけており、先祖は養豚に従事していたと考えられる。紀元前3世紀になって高位の官職者が出るようになり、カト家で最初に執政官となったのは、紀元前195年のマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)であった。大カトは高齢になってから、自分の書記を務めた解放奴隷の娘サロニアと結婚し、マルクス・ポルキウス・カト・サロニアヌスが生まれた。サロニアヌスはプラエトル(法務官)まで進んだが執政官にはなれず、この人物が本記事のカトの父である。カトには兄マルクスがおり、その子が小カトことマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスである。したがってカトは、大カトの孫で、小カトの叔父にあたる。
カトが記録に最初に現れるのは紀元前100年末である。当時のローマでは、元老院と騎士階級が団結して、民衆派の護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスに対抗していた。サトゥルニヌスは反乱を起こし、12月10日に殺害された。オロシウスによれば、護民官のカトとポンペイウスが、サトゥルニヌスによってローマから追放されていたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクスの追放を解く法案を出した。この護民官のカトが誰かについては意見が分かれ、R・ブロートンは兄マルクスと推定し、F・ミュンツァーは本記事のルキウスと考えている。法案は多くの元老院議員の支持を得たが、もう一人の護民官プブリウス・フリウスが強く反対して実現しなかった。プルタルコスもオロシウスも、フリウスの背後にはメテッルス家と対立するガイウス・マリウス(大マリウス)がいたとしている。
カトは遅くとも紀元前92年にはプラエトルに就任していたはずである。紀元前91年末にローマの同盟都市が反乱を起こして同盟市戦争が始まると、紀元前90年にはおそらく前法務官として、エトルリアの反乱軍と戦った。オロシウスによれば、多くの血と膨大な努力と引き換えにこの地を平定したという。このとき敵からヴィプスルの町を奪ったとされる。
紀元前89年、カトはグナエウス・ポンペイウス・ストラボとともに執政官に就任し、ルキウス・カエサルからイタリア南部の指揮を引き継いだ。配下の兵は規律を欠き、一時は反乱も起こしたという。しかしフキネ湖の戦いで、マルシ人の軍との交戦中、戦いの終わり近くに敵の陣営を攻め落とそうとして戦死し、ローマ側は敗れた。通常はマルシ人の兵に討たれたと考えられている。一方、オロシウスは、カトが大マリウスの軍を指揮下に入れて勝利を重ねるうちに自分を誇示し始め、混乱のなかで小マリウスに殺されたと述べる。これは、カトが自分の功績を大マリウスのキンブリ族に対する勝利に並ぶと誇ったことに小マリウスが激怒したためだともされる。ただし現代の歴史家は、この話をマリウスの宿敵スッラの回想録に基づく偏った創作と見ている。この死の経緯は、オーストラリアの作家コリーン・マッカローの小説『草冠』の副筋としても描かれている。
同じ年に亡くなった人物
- Lucius Afranius (紀元前89)
- ビテュニアのテオドシオス (紀元前 89年)
- マルクス・アエミリウス・スカウルス (紀元前89年没)
- グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前96年の執政官) (紀元前89年没)
- ティトゥス・ディディウス (紀元前89年没)
同じ地域に関係する人物
- セクストゥス・プロペルティウス (紀元前10年代没)
- トゥーリオ・レヴィ=チヴィタ (1941年没)
- ヨゼフ・ミスリヴェチェク (1781年没)
- ジュゼッペ・デ・サンティス (1997年没)
- ヨハネス3世 (ローマ教皇) (574年没)