伝記
マルクス・アエミリウス・スカウルスは、共和政ローマ後期の政務官で、紀元前115年に執政官(コンスル)を務めた人物である。紀元前162年ごろに生まれ、紀元前89年に没したとされ、「彼の頷きはほぼ全世界を支配していた」とまでいわれた。
アエミリウス氏族は、古代の歴史家によればローマで最も古い家系とされる。しかしスカウルスの生家は裕福ではなく、生活のために父は炭の業者となった。スカウルスは政務官を目指すか、両替商として生計を立てるか迷ったが、弁舌に優れていたため政治家の道を選んだ。ヌマンティア戦争に従軍したと思われ、紀元前123年ごろに神祇官となり、サルディニアの反乱鎮圧にも加わった。紀元前122年ごろには按察官(アエディリス・クルリス)になったが、祝祭の開催よりも法の執行に熱心だったという。紀元前119年には法務官に就いたと考えられ、ユグルタの王位継承に反対した。紀元前117年の執政官選挙には落選したが、紀元前115年にマルクス・カエキリウス・メテッルスとともに当選した。このとき敗れたルティリウス・ルフスから贈賄で訴えられたものの、無罪を勝ち取っている。
執政官在任中、法務官プブリウス・デキウスが起立して敬意を示さなかったため、スカウルスは立腹してその服を破り、椅子を叩き壊して、彼に係争を裁かせてはならないと宣言した。倹約のため食事の種類や量を規制する法を定め、解放奴隷の投票に関する法も提出した。リグリア人やタウリスキ人に勝利して凱旋式も挙行している。軍規は非常に厳しく、陣地に野生の果実が生えていても誰も手を付けなかったという。同年の監察官は彼を元老院筆頭(プリンケプス・セナトゥス)に指名した。以後、死去するまで幾度も指名され続けたが、監察官の経験がない者が指名されたのはこれが最初の例だった。
ユグルタ戦争の時期には、ヌミディアの王ユグルタが元老院に多額の賄賂を送っていた。紀元前112年、ユグルタに包囲されたアドヘルバルが救援を求めると、スカウルスらの使節団が北アフリカへ渡ってユグルタに出頭を命じたが、威嚇だけで帰国し、アドヘルバルは殺された。翌紀元前111年、執政官ベスティアがヌミディアに出兵する際、スカウルスはその副官(レガトゥス)に選ばれた。最大の敵対者だった彼もユグルタの買収に屈し、ごくわずかな賠償だけでの降伏が認められた。平民の怒りが高まるなか、護民官メンミウスはスカウルスを、遺産を手に入れる人物だと挑発したという。やがて紀元前110年にはマミリウス法で収賄を調べる査問官3人の一人となり、ベスティアら執政官経験者の追放にも関わった。
紀元前109年にはドルススとともに監察官に選ばれた。ドルススが任期中に死去すると、残る一人も辞任する習慣だったが、スカウルスは護民官に収監を命じられるまで辞めようとしなかったという。パルマからポー川まで運河を築いて排水し、ムルウィウス橋も建設した。紀元前103年には、アラウシオの戦いの大敗で国家反逆罪に問われたカエピオを弁護したが、裁判は暴力的で、スカウルスも石で殴られた。紀元前100年にサトゥルニヌス派が起こした反乱では、マリウスに鎮圧を依頼して動かしたとされる。紀元前91年ごろにはアシアでの任期中の収賄で告発され、同盟市戦争中のウァリウス法による裁判でも被告の一人となったが、無罪を勝ち取ったようである。紀元前89年にも元老院筆頭に指名されたと思われる。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・ポルキウス・カト (紀元前89年没)
- Lucius Afranius (紀元前89)
- グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前96年の執政官) (紀元前89年没)
- ビテュニアのテオドシオス (紀元前 89年)
- ティトゥス・ディディウス (紀元前89年没)
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