HISTORICAL PERSON · 紀元前90年没

プブリウス・ルティリウス・ルプス

紀元前90年の執政官でマリウスの親戚。同盟市戦争で北方を担当したが、マリウスの助言に従わず新兵をすぐ敵に向かわせ、トレン川でマルシ軍の待ち伏せに遭い、8千人が戦死し自身も矢傷で死んだ。

生涯
紀元前90年没
死亡地
イタリア共和国(リエーティ県 / トゥラーノ湖)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(リエーティ県)

伝記

プブリウス・ルティリウス・ルプスは、共和政ローマ末期の政治家・軍人で、紀元前90年に執政官(コンスル)を務めた人物である。同盟市戦争の最中に戦死し、同じ紀元前90年に没した。生年は伝わっていない。

ルプスは無名の平民(プレブス)の家であるルティリウス氏族の出身である。この氏族が記録に現れるのは紀元前2世紀になってからで、氏族最初の執政官は紀元前105年のプブリウス・ルティリウス・ルフスだった。父も祖父もプラエノーメン(個人名)はルキウスであった。また、ガイウス・マリウスとは親戚同士だったことが知られている。マリウスはアルピヌム出身の新人(ノウス・ホモ)でありながら、当時のローマで最も有力な政治家だった。執政官になる前の経歴は不明だが、ウィッリウス法の規定から逆算して、遅くとも紀元前93年には法務官(プラエトル)を務めたはずである。同僚の執政官はパトリキ(貴族)のルキウス・ユリウス・カエサルだった。

執政官選挙の後、紀元前91年末にイタリアのローマの同盟都市が反乱を起こした(同盟市戦争)。そのため、両執政官の主な任務はこの戦争でローマ軍を率いることになった。戦線は広大だったので、反乱地域は二つに分けられた。ルプスはピケヌム人、ウェスティニ人、サビニ人、パエリグニ人、マルシ人などが住むローマ以北を担当し、カエサルはサムニウム人やカンパニア人など南イタリアの諸族を担当した。北の敵軍はマルシ人のクィントゥス・ポッパエディウス・シロが、南の敵軍はサムニウム人のガイウス・パピウス・ムティルスが率いた。ルプスの下ではマリウス、カエピオ、ペルペルナ、ポンペイウス・ストラボ、メッサッラといった将軍が戦い、カエサルの下にはスッラ、ティトゥス・ディディウス、クラッスス、マルケッルスらが付いた。この顔ぶれは当時のローマの政局を映し、マリウス派がルプスの下に、反マリウス派がカエサルの下に集まったのだろうと考えられている。

ただし、ルプスと配下の将軍たちの仲は良くなかった。ルプスは最も有能な軍人であるマリウスの助言に従わず、徴集した新兵を野営地で訓練することも望まず、すぐに敵へ向かわせた。ペルペルナの部隊がマルシ人に敗れると、ルプスはペルペルナを解任した。その後、軍をアルバ・フセンスの街へ移そうとしたが、途中のトレン川でティトゥス・ウェティウス・スカトー率いるマルシ軍の待ち伏せを受けた。マルシ軍はローマ軍に橋を渡らせ、その直後に襲いかかって川に追い落とし、多くの貴族を含む8,000人が戦死した。ルプス自身も頭に矢を受け、ほどなく死亡した。戦いの日付はオウィディウスによると6月10日であるが、11日ともされ、マトゥタ祭の日にあたる。場所についても、トレン川とする説のほか、リリス川の近くだったとする説がある。後者によれば、ルプスは軍を二手に分け、一方をマリウスに預けて、それぞれの橋をリリス川に架けさせた。対岸のウェティウスは、夜のうちにルプスの橋の近くに強力な部隊を伏せ、翌朝ルプスはその罠にかかった。一方、流れてくる死体に気づいたマリウスは、すばやく川を渡って守りの薄い敵の陣営を奪い、ローマ軍が全滅するのを防いだ。

ルプスと貴族たちの葬儀はローマで行われたが、これは市民を落胆させた。元老院はそれ以来、戦死者は戦場の近くに埋葬すると定めた。ルプスの欠員を補う補充執政官は立てられなかった。同僚のカエサルがローマに戻れず、選挙を行えなかったためである。紀元前56年に護民官、紀元前49年に法務官を務めたプブリウス・ルティリウス・ルプスは、息子と思われる。

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