伝記
ヌマ・ポンピリウスは、王政ローマの第2代の王とされる人物で、在位は紀元前715年から紀元前673年(672年とする資料もある)と伝わる。この時代のローマは史料に乏しく、一般には伝説上の存在と考えられている。戦争を重ねてローマを広げた初代ロムルスとは対照的に、42年ほどに及ぶ治世のあいだ一度も戦争をせず、内政を整えたとされる。ローマ暦、ウェスタの処女、マルス神やユピテル神の祭祀、最高神祇官の職など、ローマの重要な宗教・政治制度の多くが彼に帰せられている。
プルタルコスによれば、ヌマはサビニ人の有力者ポンポンの四人兄弟の末子で、ロームルスがローマを建てた日に生まれたという。若いころから哲学と瞑想を好み、厳しい規律の生活を送って、家から贅沢を追い払った。ピタゴラスの学説に没頭して若くして白髪になったとも言われるが、リウィウスやプルタルコスは、時代や場所の点から、ピタゴラスに学んだという話を信じがたいとしている。サビニ人の王ティトゥス・タティウスの娘タティアを妻にして王の義理の息子となったが、権力は望まず、森の中の小さな村で妻と質素に暮らした。結婚13年目にタティアが亡くなると、田園に退いたという。
ロームルスの死後、元老院議員が交代で王の権力を行使する空位期間が約一年続いた。ロームルス派のローマ人とタティウス派のサビニ人の争いの末に妥協が成立し、元老院は、当時40歳ほどのサビニ人ヌマを次の王に選んだ。クレスにいたヌマは、その人格を評価されたのである。彼は初め、戦争の気風が残るローマには軍を率いる王が必要だとして固辞した。だが父やサビニの親族、二人の元老院議員の使節らに説得された。彼は、受ける前に鳥占いで神々の意向を確かめるよう求め、ユピテルの前兆が好意的だったので王位に就いたとされる。プルタルコスによれば、最初にしたのは、ロームルスが身辺に置いていた300人のケレレス親衛隊の解散であった。
治世のヌマは、法と慣習と祭祀を整えた。祭司をそれぞれの神に任じ、ニンフのエーゲリアと夜ごとに相談して祭祀の作法を定めたと語られ、その関係は人々の噂にもなった。リウィウスによれば、彼はエーゲリアらから受けた教えを書いたとされる聖なる書物を残した。ローマ暦は1年が10か月で不正確だったので、2か月を加えて正確な暦にした。部族同士の争いを和らげるため、農民を小さな集団に分け、商工業者も職能別の組織にして、それらを部族よりも重んじさせたという。また宣戦布告の権限を伝令僧に限り、対立相手に補償条件を伝え、満足のいく回答がないときだけ宣戦を布告する仕組みにした。もっとも有名な業績は、始まりと終わりの神ヤヌスの神殿で、その扉は戦時には開かれ、平時には閉じられた。ヌマの治世中はずっと閉じたままだったが、死後は開いたままになり、帝政になるまでに閉じられたのはポエニ戦争後の6年間だけだったという。
ヌマは天寿をまっとうして死に、81歳ほどだったとされる。遺言により、火葬ではなくヤニクルムの丘に石棺で葬られ、後継はトゥルス・ホスティリウスであった。彼の一人の娘と四人の息子は名門氏族の祖となり、カルプルニウス氏族やアエミリウス氏族もここから出たとされる。ただし、これらの系譜は家格を高めるための作り話だと見る著者もいる。死後千年を経ても、クィリナスの丘にはヌマの家が残るとして案内されたといい、孫のアンクス・マルキウスは第4代の王となった。後世の皇帝アントニヌス・ピウスは、ヌマになぞらえられた。
同じ年に亡くなった人物
該当人物はまだありません。
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