伝記
チャガタイは、モンゴル帝国の皇族で、チンギス・カンとボルテの間に生まれた次男である。生年は1178年、1185年、1186年など諸説あり、没年は1242年とされる。兄にジョチ、弟にオゴデイとトルイがいる。中期モンゴル語ではチャアダイと呼ばれ、『元史』では察合台と表記され、語源はおそらく「白い」を意味する語から出た男性形容詞だとされる。
彼は習慣や規則、法令の遵守に非常に厳しく、気性が激しく一本気な性格であったという。長兄ジョチとは、ジョチの出生への疑惑をめぐって険悪な仲であり、一族の和を重んじる父から後継者候補としては除外されていたとされる。しかし法に厳格な一面を父に見込まれ、帝国の法令であるヤサの管理を任されて、「ヤサの番人」の異名を取った。チンギス・カンが帝国の行政権を息子たちに分担させた際には、ジョチに狩猟制度の管理、オゴデイに内政一般、トルイに軍隊の指揮統帥を与え、チャガタイには大憲章やその他の法令の遵守と、違反に対する処分の権限を授けた。
1206年に大モンゴル国が建国されると、父から4つの千人隊と、旧ナイマン領のアルタイ山脈南部一帯を与えられた。高原の西方に領地を得たジョチ、チャガタイ、オゴデイには、西方諸地域への通行路を開拓させるという明確な目的があった。『長春真人西遊記』には、二太子が西征に従った際に石を穿って道を整え、木を切って48の橋を架けたとの記載がある。この道は後の中央アジア遠征の侵攻路となり、その沿線がチャガタイらの新たな領土とされた。配下のバルラス、バアリン、ジャライルなどの千人隊は、のちのチャガタイ・ウルスの母体になった。
1211年に金朝との戦争が始まると、チンギス・カンはジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイを伴って出陣し、軍を万人隊から十人隊までの組織に編成して厳しい規律を課した。諸皇子はそれぞれ一部隊の将として山西の長城以北の六州を奪い、1213年末の全軍展開ではジョチ、オゴデイとともに右翼軍として山西を征服した。1214年には金が岐国公主を贈るなどして講和し、モンゴル軍は撤退した。戦利品は王族たちに分配され、『集史』によれば、チャガタイは山西の太原府を与えられた。以後この地は、大元ウルスの末期まで彼の一族の所領として継承されたという。
西アジア遠征に先立って後継者を定める話し合いが持たれると、ジョチとの間で激しい口論が起き、チャガタイはジョチをメルキトの子だと侮蔑し、後継者にふさわしいのは自分だと主張した。そこでチンギス・カンは、兄弟の中で温厚な三男オゴデイを後継者に指名した。1219年秋のホラズム遠征では、オゴデイとともに第一軍を率いてオトラールを攻め、数か月の包囲の末に城を陥れた。続いてジョチ、オゴデイと共にホラズム地方の首都ウルゲンチの攻略に向かったが、ジョチと不和になって包囲は長引き、怒った父は二人を司令官から外してオゴデイに代えさせた。1221年には、長男モエトゥケンがバーミヤーンの攻囲で敵の矢を受けて戦死した。父はこれを隠していたが、食卓で叱責を重ねたのち、ついにその死を伝えたという。この時期、チンギス・カンはジョチを疑って討伐を決意し、チャガタイとオゴデイを前衛として出発させたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- 順徳天皇 (1242年没)
- 四条天皇 (1242年没)
- ハインリヒ7世 (ドイツ王) (1242年没)
- テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス (1242年(推定))
- ムスタンスィル (1242年没)
同じ地域に関係する人物
- サービト・ダーモッラー (1943年没)
- アレクサンドル・ドゥトフ (1921年没)
- フルカト (1909年没)
- ホージャ・ニヤーズ (1941年没)
- カイドゥ (1301年没)