伝記
ハインリヒ7世は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の長男で、ドイツ王(ローマ王)となったが、父と不和になって廃位された人物である。1211年にシチリア島で、母のアラゴン王女コンスタンサのもとに生まれた。反逆者として正統の国王とは認められないため、通常は「ハインリヒ(7世)」と括弧つきで書かれる。1212年、父が対立王に選ばれてシチリアを発つにあたり、幼い彼は教皇インノケンティウス3世の手でシチリア王に戴冠され、母が摂政となった。1216年に教皇が没したのち、父がドイツへ呼び寄せて、1217年にシュヴァーベン公位を与え、1219年にはブルゴーニュの執政権が移された。1220年春、フランクフルトの帝国会議でローマ王に選出され、1222年5月8日にアーヘンで戴冠した。ケルン大司教エンゲルベルトの保護を受け、1225年に大司教が没すると、バイエルン公ルートヴィヒ1世が後見を引き継いだ。ボヘミア王女アネシュカとの婚約は取り消され、1225年11月に、父の命で、7歳上のオーストリア公の娘マルガレーテとニュルンベルクで結婚した。2人の息子が生まれたが、いずれも早世した。
1228年にルートヴィヒと仲違いし、同年の暮れごろから親政を始めた。都市に友好的な政策に諸侯は反発し、1231年5月1日、ヴォルムスで諸侯の利益のための定めを出させられた。これが世俗諸侯の特権を広げてローマ王権を制限した。諸侯の訴えで、フリードリヒ2世は息子に疑いを向けるようになる。ハインリヒは父の政策に疑問を抱いていて、父も彼を「ドイツ総督」としか見ていなかったという。1232年、アクイレイアとチヴィダーレの帝国会議で10年余りぶりに父と顔を合わせ、叱責を受け、諸侯と教皇に従う誓いを立てさせられた。
1234年、教皇庁の働きかけに応じてロンバルディア同盟と結び、反乱を起こした。ところが同年9月に父がシチリアから帝国へ向かうと、アルプスの峠を封鎖しようとしても、味方はミニステリアーレだけで、支持する諸侯はなかった。フリードリヒ2世は軍を伴わずにアルプスを越え、財貨を投じて反乱を収めた。1235年7月2日、ハインリヒはヴィンプフェンの王宮に出頭して降伏し、7月4日のヴォルムスの帝国会議で、王位と全財産を没収された。弟のコンラートが新たなローマ王となった。
廃位後はハイデルベルクに拘禁され、目を潰されたと伝えられ、南イタリアのアプーリアへ移された。メルフィの近くのロッカ・サン・フェリーチェの獄中で6年を過ごし、ニカストロへ移される途中に、馬とともに断崖から落ちて亡くなった。1242年2月のことである。事故ではなく、自らの意思による自殺だと考えられている。この移送の前に、父は彼の赦免を決めていたとも伝えられ、その非業の死を悼んだという。遺体は金銀を織り込んだ鷲の翼の模様の衣服を着せられ、コゼンツァの教会の石棺に葬られた。1998年の遺骨の調査では、ハンセン病の患者に共通する特徴が確認された。
詩歌に対する感性は父から受け継いだといわれ、宮廷には多くのミンネゼンガー(宮廷恋愛詩人)を置いた。王位の紋章を奪われるときも歌うことを止めず、「朝に歌い夕に泣いた」と伝えられる。一方で、曖昧で移り気、無計画な性格の持ち主だったともいわれ、そうした政策が諸侯との対立を招いたという。
同じ年に亡くなった人物
- ムスタンスィル (1242年没)
- Garsende (1242年没)
- 四条天皇 (1242年没)
- チャガタイ (1242年没)
- テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス (1242年(推定))
同じ地域に関係する人物
- カルロ・ランバルディ (2012年没)
- ホフレ・ボルジア (1522年没)
- サンチャ・ダラゴーナ (1506年没)
- カッシオドルス (580年代没)