伝記
四条天皇は、日本の第87代天皇である。諱は秀仁といい、1231年3月17日(寛喜3年2月12日)に、後堀河天皇の第一皇子として一条室町邸で生まれた。母は九条道家の娘で、中宮の九条竴子(藻璧門院)である。同じ年の4月11日に親王となり、10月28日には父の皇太子に立てられた。1232年(貞永元年)10月4日、父の譲位により数え2歳で践祚し、12月5日に即位した。
幼い天皇に代わって、初めは父の後堀河上皇が院政を行った。ところが翌1233年(天福元年)に母の藻璧門院が、1234年には23歳の上皇も亡くなり、数え4歳の天皇だけが残された。このため、外祖父の九条道家と、その舅の西園寺公経が事実上の政務をとった。上皇の生前の意向に従い、天皇は後白河法皇の娘である宣陽門院の猶子となり、その養女で上皇の中宮でもあった近衛長子(鷹司院)を准母に迎え、母親代わりとした。上皇の実姉の利子内親王(式乾門院)も准母となった。彗星に祟られたこともあったが、備中国宝福寺の鈍菴慧聡の祈祷で快癒し、この寺は勅願寺となった。
1241年(仁治2年)1月5日に元服し、12月13日に九条彦子を女御として迎えた。しかし翌1242年(仁治3年)1月9日に、思いがけない事故で崩御した。数え12歳であった。皇子女はない。事故は、幼い天皇が近習や女房たちを転ばせて楽しもうと、御所の廊下に滑石の粉を撒いたところ、自分が誤って転んだものといわれる。天皇はかなりの悪戯好きで、同年配の九条忠家とは、騒々しいほどの遊びばかりで朝夕をともにしていたという。突然の崩御を不思議に思う人は少なくなく、世間では後鳥羽上皇の怨霊や慈円の祟りによるという噂が立った。転倒の経緯から、死因を脳挫傷とする推測もある。1月19日に四条院と追号された。天皇は大根を好んだといい、そのことから、泉涌寺を再興した俊芿の生まれ変わりとする説もある。
後堀河天皇の兄たちはいずれも出家していて、天皇には男の兄弟も皇子もなかったため、守貞親王(後高倉院)の血統には、皇位を継げる皇子がいなくなった。やむなく後鳥羽上皇の血統から次の天皇を選ぶことになり、九条道家ら有力な公卿は、順徳上皇の皇子の忠成王を推した。これに対して、幕府は土御門上皇の皇子の邦仁王を推した。鶴岡八幡宮で神意をうかがう手続きもとられたすえ、邦仁王が選ばれて後嵯峨天皇となったが、この間に11日間の空位が生じた。天皇の空位は、称徳天皇から光仁天皇へ移った770年の55日間以来、472年ぶりであった。
遺体は1月25日に、京都の泉涌寺の後山にある月輪陵に葬られた。現在の陵は石造の九重塔の形をとる。
同じ年に亡くなった人物
- テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス (1242年(推定))
- アブドゥルワーヒド2世 (1242年)
- Garsende (1242年没)
- 順徳天皇 (1242年没)
- チャガタイ (1242年没)
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