伝記
エレノア・オブ・ブリタニーは、ブルターニュ公ジョフロワ2世と女公コンスタンスの長女で、「ブルターニュの美しき乙女」「ブルターニュの真珠」などと呼ばれた。一一八二年から一一八四年ごろの生まれとされる。父はイングランド王ヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの四男で、彼女はイングランド王リチャード1世とジョン王の姪にあたる。弟は一一八七年生まれのアーサーである。
父は彼女が幼いうちに亡くなり、きょうだいは伯父のリチャード1世と祖母アリエノールに育てられた。父の死でブルターニュの継承順位は一位となったため、フランス王フィリップ2世が後見を求めたが、祖父ヘンリー2世が先に後見を引き受けた。弟アーサーが生まれたことで、彼女は第一の相続人ではなくなった。母のコンスタンスも彼女をブルターニュ公位の継承者とは見なさず、それが後の彼女の主張を弱めた。
エレノアは縁談の多い王女だった。一一九〇年、リチャードは妹ジョーンをサラディンの弟アーディルに嫁がせようとして失敗し、代わりにエレノアを提案したが、アーディルはキリスト教に関心を示さず、話は流れた。一一九三年には、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に囚われたリチャードの釈放条件の一つとして、オーストリア公レオポルト5世の子フリードリヒと婚約した。しかし翌年、ボードゥアン・ド・ベテュヌとともにオーストリアへ向かう途中でレオポルトが死去し、結婚は実現しなかった。教皇ケレスティヌス3世の命でイングランドへ戻り、祖母が付き添った。一一九五年の夏には、フランス王子ルイとの縁談が持ち上がったが、これも決裂した。
一一九九年にリチャードが亡くなると、ジョン支持者と十二歳のアーサーとの間で権力争いが始まった。ジョンがいつエレノアを捕らえたかは不明だが、一二〇〇年ごろの財務記録には、ジョンが彼女に必需品を支給したことが見え、アーサーも姉がジョンの支配下にあると訴えたことがあった。一二〇二年八月、ミルボーの戦いでアーサーの軍は敗れ、アーサーは捕らえられ、エレノアも一緒に捕らえられたとも、すでにジョンの手中にあったともいわれる。アーサーは翌年に幽閉先で消息を絶ち、己の王座の安泰をはかったジョンに殺されたと伝えられる。一二〇三年十二月、ジョンがノルマンディーから逃れる際、エレノアも囚人として連れ去られた。彼女はイングランド北部、ついでブリストルに移され、四人の騎士に見張られたという。一二〇四年春、フィリップは彼女を自分の次男の妻とするため釈放を要求した。一二〇六年にはブラフ城、ボウズ城、そしてコーフ城へ移され、彼女に忠実なフランス人騎士二十五人も同行した。脱走を図ったが、そのうち二十二人が捕らえられ、餓死させられた。
エレノアはコーフ城のグロリエット塔に暮らし、大広間で食事をとり、城壁の上を歩くことも許された。侍女三人がつき、衣服や寝具の布のほか、四半期ごとに五マルクの小遣いを与えられた。ジョンから金めっきの手綱の鞍を贈られており、厳重な監禁ではなかったことがうかがえる。一二一六年にジョンが亡くなりヘンリー3世が即位すると、グロスター城、マールバラ城に移され、一二二四年以降はブリストル城にいた。王室は彼女を王子の娘のように扱ったが、一二四一年八月十日に亡くなるまで軟禁されていた。死の前に、ヘンリー3世が金の冠を贈ったとも伝えられ、三日後に王子エドワードに贈ったとも、一日だけかぶって返したともいわれる。一二六八年には、ヘンリー3世がエイムズベリー教会に、歴代の国王や王妃の追悼の際にアーサーとエレノアも一緒に記念するよう求めた。
同じ年に亡くなった人物
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- コチャン (ポロヴェツ族) (1241年)
- ヴァルデマー2世 (デンマーク王) (1241年没)
- アモーリー6世・ド・モンフォール (1241年)
- オゴデイ (1241年没)
同じ地域に関係する人物
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- ウィリアム・グレイ・ウォルター (1977年没)
- ジョン・ホブハウス (1869年没)
- トマス・テュー (1695年没)
- ハンナ・モア (1833年没)