HISTORICAL PERSON · 1241年没

ヴァルデマー2世 (デンマーク王)

デンマーク王。エストニア征服でバルト海南部を制したが、敵に誘拐・幽閉されたのち多くの領土を失い、国旗誕生の伝説でも知られる。

生涯
1241年没
死亡地
デンマーク(ヴォーディングボー)
出生地
デンマーク(南デンマーク地域 / リーベ)
出典
世界地図
デンマーク(南デンマーク地域)

伝記

ヴァルデマー2世は、一二〇二年から一二四一年までデンマークを治めた王で、「勝利王」「征服王」と呼ばれる。一一七〇年六月二十八日に、ヴァルデマー1世(大王)の次男として生まれ、クヌーズ4世の弟にあたる。一一八二年に父が没したとき、まだ十二歳だった。兄がデンマーク王位を継ぎ、彼は南ユトランド(スレースヴィ)公に任じられた。後見人は、クヌーズ5世の庶子であるヴァルデマー・クヌーセン司教だった。この司教は野心家で、一一九二年にブレーメン大司教となると、ドイツの貴族の助けを借りて兄王を倒し、自らデンマークの王位につく陰謀を企てたが、それが発覚した。公は司教の危険に気づき、一一九二年にオーベンローへ招いたが、司教はノルウェーへ逃れて捕縛を免れた。翌年、司教はホーエンシュタウフェン家の支援で三十五隻の艦隊を整えてデンマークの沿岸を荒らしたが、一一九三年に兄王に捕らえられた。

公は、ホルシュタイン伯アドルフ3世とも戦った。伯は南ユトランドを奪おうと他のドイツ諸伯をあおっていたため、公は自ら集めた兵を率いて南へ進み、レンズブルクの新しい要塞を奪い、一二〇一年のシュテラウの戦いで伯を破って捕らえた。一二〇二年十一月、兄のクヌーズ王が子のないまま急死した。公はユトランド民会で王と宣言され、ヴァルデマー2世として即位した。神聖ローマ帝国は二人の王が争って内乱になっていたが、彼はオットー4世と結んでフィリップに対抗した。一二〇三年には、病を得た伯が、エルベ川以北のシュレースヴィヒ全域を譲って牢から出た。この年にリューベックとホルシュタインも征服したとされる(一二〇七年とも)。一二〇四年にはノルウェーの王位を争うエルリング・スタインヴェッグを支援して艦隊を送った。これが一二〇八年まで続く第二次バグラー戦争を招き、ノルウェー王はデンマーク王に臣従することになった。

一二〇五年にボヘミア王オタカル1世の娘ダウマー(マルケータ)と結婚し、二人の子をもうけた。その一人が一二〇九年に生まれたヴァルデマー若王で、一二一五年から共治王となった。一二〇六年には、ダウマーと教皇インノケンティウス3世の働きかけで、ヴァルデマー・クヌーセン司教が、二度とデンマークの政治に干渉しないと誓ったうえで釈放された。一二一四年にはポルトガル王サンシュ1世の娘ベレンガリアと再婚し、四人の子をもうけた。同年、エルベ川以南の大司教領に攻め込んでシュターデを征服し、ハルブルクに橋と前哨基地を築いた。治世の前半は好調で、北ドイツに勢力を伸ばし、一二一九年にはエストニアを征服してバルト海南部の覇権を握った。このとき赤地に白い十字の旗が舞い降り、掲げればデンマークは勝つというお告げに従って勝ったという話が国旗の由来として伝わるが、旗の意匠が確認できるのは十四世紀半ばである。

しかし、デンマークの台頭を望まないドイツの勢力が現れた。一二二三年、シュヴェリーン伯ハインリヒ1世が、ヴァルデマー2世と長男の若王を誘拐し、二人は三年にわたり幽閉された。解放の条件として彼は多くの領土の喪失を受け入れ、ハンザ同盟に広範な商業特権も認めざるを得なかった。海外の領土はリューゲン島とエストニアだけになった。若王は一二三一年に先立った。解放後のヴァルデマー2世は失地回復を図って北ドイツを攻めたが、多大な兵の犠牲を出しただけだった。

一二四一年三月二十八日、七十歳で死去し、次男エーリク4世が王位を継いだ。治世にはデンマークに封建制度が採り入れられ、ユトランド法典が作られた。この法典は一六八三年までデンマークの法典だった。

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