伝記
オゴデイは、モンゴル帝国の第2代皇帝で、君主として初めて「カアン」の称号を名乗った人物である。チンギス・カンの三男で、母はボルテ、ジョチとチャガタイの弟、トルイの兄にあたる。元朝は廟号を太宗、諡を英文皇帝と贈った。1211年、兄弟とともに父の金朝遠征に従い、ジョチ、チャガタイとそれぞれ一部隊を率いて、山西地方の長城以北の六州を奪った。1213年にも兄たちと右翼軍を率い、山西を征服している。
西アジア遠征に先立って、チンギス・カンは后のイェスイの注意を受けて後継者を定めようとしたが、ジョチとチャガタイが激しく口論した。チャガタイがジョチをメルキトの子だと侮辱し、自分こそふさわしいと主張したのである。そこでチンギス・カンは、兄弟のなかで温厚な三男のオゴデイを後継者に指名した。1219年秋のホラズム遠征では、チンギス・カンが軍を四つに分け、チャガタイとともに第一軍としてオトラールを攻めた。5か月の包囲の末に城は落ち、城砦は徹底的に破壊された。1220年、ホラズムの都グルガーンジュの攻略でジョチとチャガタイが不和になって包囲が半年も遅れると、怒った父は、代わってオゴデイを司令官に抜擢した。オゴデイは首尾よく両兄を和解させて規律を回復し、1221年4月に総攻撃を命じて市を陥落させた。1222年にはガズニーの破壊も命じられ、職人を選んでモンゴル高原へ送り、ほかの住民を殺したとされる。
1227年にチンギス・カンが没すると、遺した軍隊は分配され、オゴデイ家が4,000人を受けたのに対し、末子相続によりトルイ家は10万1千人と大部分を相続した。摂政となったトルイが葬儀を執り行い、その後2年間は空位が続いた。1229年春、ケルレン河畔にクリルタイが開かれた。参会者の多くはトルイを推したが、大臣の耶律楚材がオゴデイを強く推し、トルイも父の遺言に従って賛同したため、票はオゴデイに集まった。本人は年長の叔父や兄を差し置けないと固辞して40日が過ぎ、41日目に諸侯の懇請を受け入れて、1229年9月に即位した。政務ではチンギス・カンのヤサの厳守を第一とし、耶律楚材の進言で官吏の位階や税の規定を整え、駅伝(ジャムチ)を設けた。課税では、中国人は銀・絹・穀物を納め、モンゴル人は馬・牛・羊の百頭につき1頭を納めるものとされた。1229年のクリルタイでは、ホラズムの残党の掃討、キプチャク人などの征服、金朝征服の三つの遠征計画も決められた。
1230年からトルイとともに金朝の征服にあたり、南からの迂回策を採って金軍を破り、1232年にはスブタイに首都卞京の包囲を任せて高原へ戻った。トルイはその年10月、41歳で亡くなった。金の皇帝は蔡州で自害し、1234年、118年続いた金朝は滅んだ。1234年にはダラン・ダバスでクリルタイを開き、翌1235年にもオルホン河畔の新都カラコルムでクリルタイを招集して、この会議で南宋・高麗への遠征と、ジョチの子バトゥを総司令官とする西方遠征が決められた。将軍フカトにはカシミールとインドの攻略が命じられた。中国から多数の職人を呼び寄せてカラコルムに壮麗な宮殿を建てさせたとされる。1241年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ケレスティヌス4世 (ローマ教皇) (1241年没)
- バランゲー・ダ・パロウ2世 (1241年没)
- マヌエル・コムネノス・ドゥーカス (1241年没)
- アモーリー6世・ド・モンフォール (1241年)
- 藤原定家 (1241年没)
同じ地域に関係する人物
- 林彪 (1971年没)
- バイジュ (モンゴル部) (1259年没)
- ボルテ (1230年代没)
- アリクブケ (1266年没)
- ソルコクタニ・ベキ (1252年没)