伝記
ジャラーラトゥッディーン・ラズィーヤは、1205年ごろに生まれ、1240年10月に没した北インドのデリー・スルターン朝、奴隷王朝の第5代の君主である。在位は1236年から1240年までで、この王朝とデリー・スルターン朝を通じて唯一の女性君主とされる。父はイルトゥトゥミシュ、母は先代クトゥブッディーン・アイバクの娘トゥルカーン・ハトゥーンで、ラズィーヤは父の長女であり、おそらく第一子だった。
イルトゥトゥミシュは長男ナースィルッディーン・マフムードを後継者に育てていたが、この長男は1229年に急死した。歴史家ミンハージュによれば、王は他の息子たちが快楽にふけり、国政を担えないと見ていた。1231年にグワーリヤル遠征に出る際、ラズィーヤにデリーの統治を任せると、その働きぶりに感心し、帰還後に彼女を後継者に指名したと伝えられる。貴族らが息子がいると疑問を呈すると、王は、ラズィーヤは息子たちより有能だと答えたという。ただし、この指名の話は、のちに彼女の支持者が広めた作り話だった可能性も指摘されており、確かではない。
1236年4月に父が没したとき、ラズィーヤはその場に居合わせなかった。貴族らは臨終の場にいた異母兄ルクヌッディーン・フィールーズ・シャーを王に擁立し、彼女は退けられた。新王は即位するとすぐ快楽にふけり、生母シャー・トゥルカーンが政治に干渉したため貴族の反感を買い、北インド各地で反乱が起こった。フィールーズ・シャーが鎮圧のためデリーを出ると、ラズィーヤはシャー・トゥルカーンに殺されることを恐れ、金曜礼拝に集まった人々に援助を求めた。当時の習慣に従い、不当な扱いを受けた者が着る赤い服をまとい、自分が有能であることを示す機会がほしいと訴えたとされる。人々は王宮を襲い、シャー・トゥルカーンは捕らえられ、引き返した新王も配下に裏切られて捕らわれ、1236年11月に処刑されたとされ、ラズィーヤが王座に就いた。民衆の支持が即位の原動力となった点は特異とされる。
しかし治世は安定しなかった。王位はチェハルガーニーと呼ばれる有力なトルコ系貴族の後押しで得たもので、彼らは意のままになる傀儡を望んだが、政治的・軍事的な才能のあるラズィーヤは従わなかった。彼女は女性の服を脱いで男装し、顔を覆わずに宮中会議を開き、自ら狩りに出て、戦場では軍を率いた。ラージプートの勢力を抑えるためランタンボールにも軍を送り、一時は王国全土を安定させた。宰相ジュナイディーが反乱を起こすと、アワドのヌスラトゥッディーンの救援を得て鎮圧した。一方、非トルコ系の人物を要職に用い、東アフリカ沿岸出身の黒人奴隷ジャマールッディーン・ヤークートを大将軍に起用したため、トルコ系貴族の妬みを買い、愛人関係の噂も立った。
1239年から1240年にかけて、北西部のラホールなどで反乱が起こり、彼女は自ら遠征軍を率いてラホールの知事を従わせた。だが、シルヒンドへ向かう途中、軍内部で反乱が起き、ヤークートは殺され、彼女はバーテインダで捕らえられた。デリーの貴族らは異母弟ムイズッディーン・バフラーム・シャーを王に立てた。彼女は捕らえたマリク・アルトゥーニヤを説き伏せて味方に引き入れ、結婚して、デリーへ進軍した。10月にバフラーム・シャーを擁するトルコ系貴族と戦ったが敗れ、逃げる途中でジャートの農民に殺害された。イブン・バットゥータの記録では、農民は高価な衣服に目がくらんだとされ、男装のためラズィーヤと気づかなかったともいう。遺体は妹サズィーヤとともに、オールド・デリーの目立たない片隅に葬られている。
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