HISTORICAL PERSON · 1240年代没

ムハンマド・アウフィー

ブハーラー出身の文人で、モンゴルの来襲を避けてインドに移住した。ペルシア語詩の名詩選と散文名文選を編み、前者は現存する最古のペルシア語詩アンソロジーとして、文学史上特別な地位を占める。

生涯
1240年代没
死亡地
インド(デリー)
出生地
ウズベキスタン共和国(ブハラ)
出典
世界地図
インド(デリー)

伝記

ムハンマド・アウフィーは、13世紀のペルシア語の文人である。1175年ごろに生まれ、1232年以降に没したとされる。ブハーラー出身と見られ、中央アジアからホラーサーン、スィジスターンを旅したのち、モンゴルの来襲を避けてインドへ移った。詳しい名はサディードゥッディーン・ムハンマド・イブン・ムハンマド・イブン・ヤフヤーという。生涯の情報は、ほとんどが本人の著作に拠っている。アウフィーは自らを、預言者ムハンマドの教友アブドゥッラフマーン・イブン・アウフの直系の子孫だと主張した。祖父のシャラフッディーン・ヤフヤーは、マーワラーアンナフルで指導的な学者であり、裁判官も務めた。母方のおじのスルハカティーは、カラハン朝のスルタンに個人的に仕えた医師で、頌詩や、カラハン朝の歴史の著作を残している。

ブハーラーで初歩の教育を終えると、知識を求めて旅に出て、最初に訪ねたのが、おじのいるサマルカンドだった。1201年に宮廷でスルタンの跡継ぎとなる人物ウスマーンに引き合わされ、その教養と有能さを気に入られて、祐筆として傍に置かれた。1203年にはホラズムを訪れた。遅くとも1204年にはサマルカンドを離れてニサーに移り、そこでスーフィー教団の長老に会った。1206年にニーシャープールへ行き、比較的長く滞在して、地位のある人々と広く交わった。その後ヘラートに移って、1215年までとどまった。この旅の途中では、追いはぎに遭い、身ぐるみはがれたこともあった。

インドへの移住を決めたのは、1210年以降のことである。モンゴルが攻めてくるらしいという噂を聞いて、インダス川を渡り、ラホールに入った。スィンドとムルターンを支配する総督ナースィルッディーン・カバージャの宰相アイヌルムルク・フサインの経済的な庇護を求め、1228年まで総督の宮廷があるウチに住んだ。1220年にはペルシア語詩の名詩選『ルバーブ・アルアルバーブ』をまとめて、総督と宰相に献上した。一時期は、カンバートの町の裁判官も務め、1226年に、10世紀のカーディー、タヌーヒーのアラビア語の著作をペルシア語に訳したとされるが、この翻訳は失われた。

1228年、デリーのスルタン、イルトゥトゥミシュが総督を攻めて、スィンドとムルターンをデリーの支配下に併合した。アウフィーは総督の求めで、ペルシア語散文の名文集『ジャワーミウ・ル・ヒカーヤート』の編集を始めており、王国が滅ぶ最後の日まで総督とともにいたが、イルトゥトゥミシュが勝つとすぐにその臣下に入った。完成させた書は、イルトゥトゥミシュと、その宰相ニザームルムルク・ムハンマドに献上した。その後の足取りは不明だが、書中にベンガルの反乱への言及があるため、それが起きた1230年までは確実に生きていた。20世紀イランの文学者は、少なくともヒジュラ暦630年(西暦1232年から1233年)までは存命だったと主張している。

『ルバーブ・アルアルバーブ』は『心の精髄』などと訳され、各詩人の小伝を添えてペルシア語詩を紹介する形式の、現存する最古のアンソロジーである。旅先で会った詩人たちの同時代の詩と伝記を載せ、ガズナ朝やサーマーン朝などの宮廷詩人の作品と伝記の情報も得られる点で重要だが、詩の選び方に偏りがあり、批評に乏しいともされる。『ジャワーミウ・ル・ヒカーヤート』は、全4部、各25章からなり、2000文を超える散文を集めた大作で、モンゴル侵入前のイランの貴重な情報源でもある。

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