伝記
インドラ・クマール・グジュラールは、1919年12月4日、英領インドの分割前のパンジャーブ州ジェラム県ソハワ郡にあるパリ・ダルヴェーザ村で生まれた。現在のパキスタン領にあたる。パンジャーブのヒンドゥー教徒でカトリーの家に、プシュパとアヴタル・ナライン・グジュラールの子として生まれ、のちに世界的な画家・彫刻家となる弟サティーシュがいた。ラホールのDAV大学、ヘイリー商科大学、フォーマン・クリスチャン大学で学び、全インド学生連盟に加わった。学生のころからインド独立運動に積極的に加わり、1942年の「インドを立ち去れ」運動では学生指導者として投獄された。学生時代にはインド共産党の党員でもあった。
1945年5月26日には、のちに詩人として評価されるシーラと結婚し、二人の間に二人の息子が生まれた。長男ナレシュは後年、シローマニ・アカーリー・ダルの議員としてラージヤ・サバーに席を持った。妻は2011年7月11日に病気で世を去った。趣味は詩で、ウルドゥー語を話し、没後にはウルドゥー語を愛した人物としてマウラナ・アザド国立ウルドゥー大学から追悼された。同大学では総長を務めていた。
インドとパキスタンが分離独立すると、ラホールからデリーへ移り住み、デリーの地方政治に携わるようになった。1958年にはニューデリー市議会の副議長に就任している。1964年にインド国民会議派に入党し、インディラ・ガンディーに近い存在としてその4月にラージヤ・サバー議員となった。1975年6月の非常事態の際には情報放送大臣として、検閲下のメディアを統括し、国営テレビも所管した。水資源大臣も務めたほか、のちにインディラ・ガンディーから駐ソ連インド大使に任じられ、モラルジー・デサイとチャラン・シンの政権期にも留任した。大臣の座を離れた背景には、検閲をめぐる首相の息子サンジャイ・ガンディーとの対立があったと噂された。
1980年代に国民会議派を離党してジャナタ・ダルに加わり、1989年の総選挙でパンジャーブ州ジャランダルから当選して、ヴィシュワナート・プラタープ・シン内閣の外相となった。同年にはルバイヤ・サイード誘拐事件の交渉のため、首相からスリナガルへ派遣された。湾岸戦争のさなかには、在留インド人の安全を確かなものにする善意の表れとしてサダム・フセインを抱擁し、論議を呼んだ。1991年の総選挙ではビハール州パトナから出馬したが、不正の訴えから選挙は取りやめになり、1992年にラルー・プラサード・ヤーダヴの助力でラージヤ・サバー議員に選ばれた。1996年の総選挙後、H・D・デーヴェー・ゴウダ首相の統一戦線政権で再び外相となり、近隣諸国との関係改善を重んじる「グジュラール・ドクトリン」を打ち出した。国民会議派が支持を撤回して政権が倒れると、統一戦線の新しい党首に選ばれ、1997年4月21日に首相に就任した。ラルーやムラヤム・シン・ヤーダヴらも候補にあがるなか、合意の候補としての就任だった。任期は一年に満たず、1998年にすべての政治職から退き、2012年11月30日、肺の感染症による入院の後、92歳で死去した。
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