伝記
ナトラム・ヴィナヤック・ゴドセは、1910年5月19日、マラーター系のバラモンの家に生まれた。父ヴィナヤック・ヴァマンラオは郵便局員、母はラクシュミである。生まれたときの名はラマチャンドラであった。両親には先に息子3人と娘1人があったが、男の子はいずれも早世しており、男児を狙った呪いがかけられているのではと恐れた両親は、幼いラマチャンドラを数年間女の子として育て、鼻にピアスを施して、マラーティー語で「ナト」と呼ばれる鼻輪を付けさせた。このため「ナトをつけたラマチャンドラ」の意味で「ナトラム」と呼ばれるようになった。やがて弟が生まれると、両親は彼を男の子として扱うようになった。学校で学んでいた頃は、ガンディーを大いに尊敬していたという。
のちに高校を中退し、ヒンドゥー・ナショナリズムを奉じる民族義勇団(RSS)に加わって活動家となった。1932年にマハーラーシュトラ州のサーングリーで「基礎作業員」としてRSSに入り、並行して同じ右翼団体のヒンドゥー大連盟でも活動した。しばしば新聞に記事を書いて自分の考えを広め、マラーティー語の新聞『アグラニ』を創刊した。同紙は数年後に『ヒンドゥー・ラーシュトラ』と改称された。1940年代はじめには自ら主宰する組織としてヒンドゥー・ラーシュトラ・ダルを準備し、1942年に立ち上げたが、その後もしばらくはRSSと大連盟に籍を置いた。ゴドセはガンディーの哲学を拒み、ガンディーが「死に至る断食」を用いて、ヒンドゥー教徒の利益を何度も損なってきたと考えるようになっていた。1946年、インド・パキスタン分離独立をめぐる見解の相違から、RSSと大連盟を離れた。
ゴドセはほか6人とともに暗殺計画を練った。1948年1月30日17時17分、ニューデリーで夕べの祈りの最中だったガンディーに近づき、お辞儀をした。付き添いの若い女性が「お父さんはもう遅れています」と引き離そうとしたが、彼女を押し退け、半自動式拳銃ベレッタM1934でガンディーの胸部を至近距離から3度撃った。居合わせたアメリカ大使館の若い副領事が真っ先に飛び出してゴドセの両肩を掴み、軍人たちが取り押さえて武装解除した。ガンディーは自室に運ばれたが、程なく死去した。
裁判はシムラーのパンジャブ高等裁判所で行われ、1年以上を経た1949年11月8日に死刑判決が下された。ガンディーの二人の息子から減刑の嘆願が出たが、首相ネルー、副首相パテール、総督ラージャゴーパーラーチャーリーはこれを却下した。ゴドセは11月15日にアムバラ中央刑務所で絞首刑となり、39歳であった。共犯の1名も絞首刑となり、弟は武器を運んだとして有罪になった。事件後、RSSは一時禁止されたが、組織が企てを支援した証拠は出ず、禁止は1949年に解かれた。RSSはゴドセとの関係を否定する一方、弟は兄弟全員が会員だったと主張しており、見解は分かれている。甥のサティヤキ・サーヴァルカルは、ゴドセがRSSには批判的で、結びつきに不満を持っていたものの、正式な脱退の手続きはとっていなかったと述べている。2014年にインド人民党が政権に就くと、ヒンドゥー大連盟はゴドセを愛国者として称え、胸像の設置を求めた。2015年には彼を扱った記録映画が公開された。
同じ年に亡くなった人物
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- ニコス・スカルコッタス (1949年没)
- フィリップ・コーウェル (1949年没)
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- ルイ2世 (モナコ公) (1949年没)
同じ地域に関係する人物
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- ラズィーヤ (1240年没)
- Mohammed Shahid (2016年没)
- ビパン・チャンドラ (2014年没)