伝記
アンリ1世は、1165年ごろに生まれ、ブラバント公国の初代の公となった人物である。「勇敢公」と呼ばれた。ルーヴェンの生まれともいわれる。父はルーヴェン伯ゴドフロワ3世(8世とも数える)、母はリンブルク公ハインリヒ2世の娘マルガレーテである。早くから父の共同統治者として現れ、1180年ごろにブローニュ伯マチュー・ダルザスと女伯マリーの娘マティルドと結婚し、その機会に父からブリュッセル伯領を与えられた。父が1182年から1184年までエルサレムへ巡礼に出た間は、摂政を務めた。
1183年から1184年にかけて、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世からブラバント公の称号を与えられ、ブラバント公国が生まれた。1185年にはスヘルトーヘンボスを自治都市に指定し、繁栄の基礎を築いた。1190年に父が没すると下ロレーヌ公位も継いだが、実権の伴わない名誉職であった。勢力の拡大をねらってエノー伯ボードゥアン5世と争い、兄弟のアルベール・ド・ルーヴェンがリエージュ司教に選ばれてまもなく殺された際にも、ドイツ王と対立した。リンブルク公ハインリヒ3世やヘルレ伯オットー1世とも争いが続いた。1197年半ばには皇帝ハインリヒ6世の十字軍に指導者の一人として加わり、10月のベイルート奪回に参加した。ヤッファへ向かう途中でエルサレム王のシャンパーニュ伯アンリ2世の死を知ってアッコに戻り、新王キプロスのエメリーが着くまで摂政を務めた。
皇帝の死後はドイツに戻り、娘マリアの婚約者だったヴェルフ家のオットー4世を、シュヴァーベン公フィリップに対抗する王として支持した。フィリップに味方したホラント伯ディルク7世らと戦ったが、1204年にはフランス王フィリップ2世とともにフィリップの側へ移った。1208年にフィリップが暗殺されると、フランス王は後継者としてアンリを推した。その後の戦いを経て、アンリは皇帝となったオットー4世と和解した。1213年4月22日、ソワソンでフランス王フィリップ2世とアニェス・ド・メラニーの娘マリーと再婚した。同じ年にはステップの戦いでリエージュ司教領に大敗した。
1214年には、娘マリアがマーストリヒトでオットー4世に嫁いだ。同じ年、アンリはオットー4世とともにブーヴィーヌの戦いでフランス王と戦って敗れ、のちフリードリヒ2世に降伏した。1217年から1218年には第5回十字軍に加わってエジプトへ向かった。都市の整備にも力を注ぎ、スヘルトーヘンボスやアインドホーフェンなどに都市権と交易の特権を与えた。1234年には、娘婿のホラント伯フロリス4世とともにシュテディンガー十字軍でブレーメンへ遠征した。子は、最初の妻との間に6人、フランス王の娘マリーとの間に2人が生まれた。マリアはオットー4世と死別したのち、ホラント伯ウィレム1世と再婚した。マティルドはライン宮中伯ハインリヒ6世と死別して、ホラント伯フロリス4世と再婚した。
1235年、皇帝フリードリヒ2世の命で、皇帝の婚約者であるイングランド王ジョンの娘イザベラをドイツへ迎えに行ったが、帰路に病に倒れ、ケルンで9月5日に没した。遺体はルーヴェンの聖ペテロ教会に葬られた。そこに残る墓は同種のものでは現存最古とされ、アンリは微笑む若者として理想化され、長衣と公のマントをまとい、笏を持つ姿で彫られている。
同じ年に亡くなった人物
- ベアトリス・デ・スアビア (1235年没)
- 盲目のイサク (1235年)
- アンドラーシュ2世 (ハンガリー王) (1235年没)
- アンドロニコス1世 (トレビゾンド皇帝) (1235年没)
- マリア・フォン・ホーエンシュタウフェン (1235年没)
同じ地域に関係する人物
- フレディ・シュミットケ (2017年没)
- ギゼラ・ウーレン (2007年没)
- ヨハネス・シュタインホフ (1994年没)
- ノルベルト・ブルグミュラー (1836年没)
- オットー・ヴィルヘルム・トーメ (1925年没)