伝記
アンドラーシュ2世は、1177年に生まれ、1235年9月21日に没したハンガリー王国アールパード朝の国王で、1205年から1235年まで在位し、クロアチア王も兼ねた。父はベーラ3世、母はアニェスで、その次子として生まれた。1182年に兄イムレが若王として戴冠していたため、当初は王位を継ぐ見込みが低い立場だった。幼少のころ、ガリツィア公国を占領したハンガリー軍の統治者に名目上任じられたが、実際に現地へ入ることはなかったという。
1196年に父が没すると、兄イムレが即位し、アンドラーシュは父が十字軍のために貯めていた軍費を相続した。彼はこの遺産を、兄から王位を奪う企てに使い、オーストリア公レオポルト6世の支援を得て、1197年12月に兄の軍を破ってクロアチアとダルマチアの支配権を手にした。教皇インノケンティウス3世が十字軍への参加を促しても応じず、1199年夏に兄との戦いに敗れてオーストリアへ亡命した。のちに教皇の仲裁で和睦し、支配権は兄に返された。1200年ごろにはメラーノ公女ゲルトルードと結婚した。1203年に再び反乱を起こして捕らえられたが脱走し、1204年に病を得た兄から幼い甥ラースローの後見を命じられ、兄の没後は摂政としてハンガリーを統治した。1205年5月にラースローが亡くなり、アンドラーシュが王位を継いで、同月29日にセーケシュフェヘールヴァールでカロチャ大司教ヨハンから戴冠された。
即位した彼は、それまでの方針を転換し、修道院や教会、貴族に王領や城を分配して支持者を得ようとした。土地の相続が無条件に認められた結果、ハンガリーに大領主層が生まれ、国の収入は減った。貨幣の鋳造や鉱山の経営、課税で補ったが、王に忠実な新たな階層は旧来の大貴族や聖職者と争い、のちに王権を弱める原因にもなった。1211年にはクマン人の襲撃に備え、ドイツ騎士団にトランシルヴァニアの地を与えたが、騎士団は独立した領邦を作り始めた。王妃ゲルトルードが親族とドイツ系の廷臣を優遇したため貴族の不満が高まり、1213年、王の留守中に貴族らが王妃を暗殺する事件が起きた。帰国後、彼は首謀者だけを処刑し、翌1214年には王子ベーラを若王として戴冠させた。ガリツィアにも度々軍を出したが、確保は続かなかった。
1215年にラテン帝国皇帝アンリ・ド・エノーの姪ヨランドと再婚した。1217年には第5回十字軍に加わって聖地へ向かったが、投石器と弩が期日どおりに届かず、成果は乏しく、翌年に帰国し、ラテン帝位の獲得も失敗した。帰国すると国庫は底をつき、彼は性急な財政改革に乗り出した。臨時の税を課し、ユダヤ人やイスラム教徒に貨幣の鋳造や徴税を認めたため、支持を失った。1222年初頭、不満を抱く廷臣と貴族が宮廷に押し寄せ、彼は金印勅書を発布した。廷臣や大貴族の権利が拡張され、教会の利益は制限された。しばしばマグナ・カルタのハンガリー版と例えられるが、王たちは条項を守らなかった。1224年にはトランシルヴァニアのザクセン人に特権を保証し、独立を強めたドイツ騎士団からは特権を剥奪して、1225年に撤退させた。
晩年は、王領の回収を図る王子ベーラとの不和や、教会との対立に悩まされた。1231年に金印勅書を改訂して教会に不利な条文を削り、大司教に協定を破った王を破門する権限を与えたが、異教徒の金融業者の雇用を続けたため、1232年初頭に破門され、やむなくベレグ協定を結んだ。
同じ年に亡くなった人物
- Qul Ghali (1235年(推定))
- ベアトリス・デ・スアビア (1235年没)
- アンリ1世 (ブラバント公) (1235年没)
- マリア・フォン・ホーエンシュタウフェン (1235年没)
- クトゥブッディーン・バフティヤール・カーキー (1235年没)
同じ地域に関係する人物
- Laszlo Papp (1989年没)
- ティヒ・ラヨシュ (1999年没)
- ライク・ラースロー (1949年没)
- ダルノキ・イェネー (2006年没)
- Miklos Pancsics (2007年没)