伝記
フィリップ・ユルプルは、1200年に生まれたフランスの王族で、クレルモン伯とブローニュ伯をつとめた人物である。フランス王フィリップ2世と、3番目の妃アニェス・ド・メラニーの子で、ルイ8世の異母弟にあたる。父とアニェスの結婚は、父の先の妻インゲボルグとの結婚があったため、教皇庁に認められず、息子のフィリップも庶子とされた。ほかに異母兄ピエール・シャルロ、姉マリーがいた。「ユルプル」というあだ名は、逆立った髪を意味し、父王フィリップや、異母兄ルイ8世の息子の甥たちと区別するため、生前から使われていた。「エリセ(剛毛)」とも呼ばれた。1201年7月、サン・コランタン・レ・マント修道院で行われた母アニェスの埋葬に参列した。母の死後、教皇庁により、姉マリーとともに嫡子と認められたが、王子としての地位は不安定だった。
1214年のブーヴィーヌの戦いの後、フィリップ2世は、イングランド王や皇帝、フランドル伯と結んでいたブローニュ伯ルノー・ド・ダンマルタンに、娘マティルドへの伯位の譲渡を強いた。1216年、フィリップ・ユルプルは、父の取り決めで、このマティルドと結婚し、妻の共同統治者として、ブローニュ伯領と、ダンマルタン伯領の4分の1を得た。結婚の時期を1218年とする説もある。1218年には、父から封土としてクレルモン伯領を与えられた。ダンマルタン伯領の全権を握ったのは、1227年である。夫妻の間には1男1女が生まれ、娘ジャンヌ(1219年-1252年)はヌヴェール伯ゴーシェと結婚し、息子アルベリク(1222年-1284年以降)はクレルモン伯、モルタン伯となった。
1226年に、異母兄ルイ8世のアルビジョア十字軍に従った。同じ年、ルイ8世が亡くなると、その子ルイ9世の戴冠式に出席し、ランスで王の剣を捧げ持ったが、式に出た大貴族は少なかった。その後、ルイ9世の摂政となった、ルイ8世の未亡人ブランシュ・ド・カスティーユに対して反乱を起こしたが、鎮圧された。反乱は1228年から1230年のこととされ、フィリップ・ユルプルは、主な首謀者の一人だった。この王権への反対のなかで、ブローニュの防備を固め、1227年から1231年にかけて、ブローニュ・シュル・メールの城壁を築き、城を建てた。カレー、アルドロ、エタープルの城も築かせたとされる。
1234年7月19日、コルビーで開かれた馬上試合で、一騎討ちを行い、ホラント伯フロリス4世を事故で死なせたと伝えられる。同じ日、その後のクレーヴェ伯ティエリー5世との一騎討ちで、自らも事故死した。息子アルベリクは、理由がわからないが、領地の相続権を放棄してイングランドへ移住し、クレルモン伯領は王領となった。未亡人となったマティルドは、のちにポルトガル王アフォンソ3世と再婚して王妃となった。マティルドの死後、ブローニュ伯領の統治権をめぐって争いが起き、最終的にはアデライード・ド・ブラバンの手に渡り、のちにオーヴェルニュ家の所領となった。
同じ年に亡くなった人物
- ロベール3世 (ドルー伯) (1234年没)
- フロリス4世 (ホラント伯) (1234年没)
- オットー1世 (メラーン公) (1234年没)
- ティルベリのゲルウァシウス (1234年)
- アブー・ハフス・ウマル・アッスフラワルディー (1234年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョルジュ・シフラ (1994年没)
- フェリシアン・ロップス (1898年没)
- オズワルド・モズレー (1980年没)
- ピエール=ジル・ド・ジェンヌ (2007年没)
- ドミニク・オーリー (1998年没)