伝記
オットー1世は、1180年ごろに生まれ、1234年5月7日にブザンソンで没した、アンデクス家のメラーン公で、在位は1204年から1234年までである。ブルゴーニュ女伯ベアトリクスとの結婚によって、ブルゴーニュ伯(オットー2世、在位1208年から1231年)でもあり、1228年からはイストリア辺境伯、クライン辺境伯を兼ねた。メラーン公ベルトルトと、アグネスの長男で、聖女エリーザベトの母方のおじにあたる。1204年(1205年とも)に父が亡くなると、メラーン公位を継いだ。父が持っていたイストリアとクラインの辺境伯位は、弟ハインリヒ2世が継いだ。
1208年6月21日、オットーは、ホーエンシュタウフェン家のブルゴーニュ女伯ベアトリクスと、バンベルクで結婚した。ベアトリクスはブルゴーニュ伯オットー1世の娘であった。結婚式の最中に、ベアトリクスの叔父であるドイツ王フィリップが暗殺され、その後オットーは、フィリップと対立していたヴェルフ家のオットー4世に近づいた。しかし、アンデクス家の立場は著しく弱まった。弟ハインリヒ2世は、暗殺への関与を追及されて、領地をバイエルン公ルートヴィヒ1世に奪われ、アンデクス城は破壊された。オットーは、ブルゴーニュ伯領を支配したと思われるが、在地貴族のオーソンヌ伯と長く争い、シャンパーニュ伯ティボー4世に、担保としてブルゴーニュの領地を与えなければならなくなった。
1217年(1213年とも)、オットーは、オーストリア公レオポルト6世と、その義兄ハンガリー王アンドラーシュ2世とともに、第5回十字軍に参加した。1222年、ブザンソン大司教ジェラール1世・ド・ルージュモンとの間で、義父オットー1世が壊さないと約束していた場所に、城を建てたことをめぐる論争が起こった。オットーは、城を壊すことも、説明することもしなかったので、大司教は、オットーを破門し、その領土全体に聖務禁止命令を出した。オットーは、弟のバンベルク司教エクベルトの助けを求めて、バンベルクへ向かった。1223年10月20日、オットーは、多額の教会への寄付からなる5つの特許状を出した。1228年に、少し前に弟ハインリヒ2世が取り戻していたイストリアとクラインを相続した。
1231年、妃ベアトリクスが亡くなると、オットーは、ブルゴーニュ伯位を息子オットーに譲った。アンハルト侯ハインリヒ1世の娘ゾフィーと再婚したが、子はなかった。1234年にオットーが亡くなると、息子のオットーが、メラーン公位と、イストリアとクラインの辺境伯位も継いだ。ベアトリクスとの間には、オットー2世、ベアトリクス、アグネス、マルガレーテ、アーデルハイト、エリーザベトの子が生まれた。息子オットー2世は、1248年に男子なく亡くなり、アンデクス家は断絶した。
同じ年に亡くなった人物
- ベハ・アッディーン (1234年没)
- 哀宗 (金) (1234年没)
- ロベール3世 (ドルー伯) (1234年没)
- アブー・ハフス・ウマル・アッスフラワルディー (1234年没)
- フィリップ・ユルプル (1234年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・ボアン (1613年没)
- ジャン・メレ (1686年没)
- コンピエーニュのロスケリヌス (1120年代没)
- ジェームズ・ティソ (1902年没)
- リュシアン・ローラン (2005年没)