伝記
袁世凱は、1859年9月16日(咸豊9年8月20日)に河南陳州府項城県で生まれた、中国清末民初の軍人・政治家である。初代中華民国大総統であり、北洋軍閥の総帥でもある。字は尉廷、号は容庵。生家の袁氏は官僚や軍人を多く出した地元でも指折りの名族で、若いころから立身出世の願望が強かったという説がある。官僚を志して科挙に2度挑んだが及第せず、軍人を志した。1881年に李鴻章の配下の淮軍に入って朝鮮に渡り、壬午事変や甲申政変の鎮圧に貢献した。この功で、事実上の朝鮮公使として強大な権限を手にし、清国内でも権勢を強めた。朝鮮に清の勢力を植えつけ、対抗する日本の勢力を排除しようとして、経済面では一定の成果を挙げた。しかし1894年に甲午農民戦争が起こり、清の派兵に日本も対抗して派兵したため、日清戦争が始まった。
戦争は清の大敗に終わり、李鴻章は失脚した。この敗北のなかで、袁は近代化した軍隊の必要性を痛感した。1895年10月に陸軍の洋式化の職務に就き、近代兵器を使った訓練と厳しい規律を実施して大きな成果を挙げた。これが新建陸軍で、当時の欧米人や日本人も視察して高く評価した。公使館付武官の青木宣純が軍事顧問として育成を助け、袁は青木を「最も信頼できる日本人」と評したという。この軍事力が彼の権力の基礎となり、段祺瑞、馮国璋、王士珍らもこの時期から彼の幕下に入った。1898年の戊戌の変法では、康有為らを当初支持していたが、形勢が悪いと見ると、譚嗣同から持ちかけられたクーデター計画を栄禄に密告し、西太后の信頼を得た。1899年に山東巡撫となり、義和団の乱では領内の反乱をいち早く鎮圧した。朝廷が諸外国への攻撃を命じても従わず、李鴻章らと協調して東南互保の盟約を結んだ。1901年、李鴻章は没するにあたり、北洋通商大臣兼直隷総督を袁に引き継がせ、北洋軍が誕生した。
袁は光緒新政の中心人物となり、外国から借款して軍の洋式化や教育機関、鉄道、銀行などのインフラ整備を進めた。1907年には軍機大臣・外務部尚書となった。1908年に光緒帝と西太后が相次いで亡くなり、宣統帝の父の載灃が摂政王になると、状況は一変した。載灃は兄の光緒帝を裏切った袁を憎み、1909年初めに彼を失脚させた。袁は河南の彰徳に引きこもったが、部下は政権に残り、情報は豊富に入手していたらしい。1911年10月に辛亥革命が起こると、朝廷は彼にしか鎮圧できないと判断して、内閣総理大臣に任命した。袁は部下を鎮圧に向かわせつつ自らは動かず、革命派とひそかに連絡を取り、臨時大総統就任の言質を取るや朝廷に政権の交代を促した。1912年2月12日に宣統帝が退位し、清朝は滅亡した。3月10日、袁世凱は臨時大総統に就任した。
袁は、中央の元首が強い権力を振るってこそ、乱れた中国がまとまると考えていた。議院内閣制を主張した国民党の宋教仁は、1913年3月に暗殺された。南方各省の反乱(第二革命)は軍事力で退け、孫文らは日本へ亡命した。同年10月に正式に大総統に就任し、国民党に解散を命じ、1914年には大総統の権限を強化する約法を公布した。1915年に日本から対華21か条要求を突きつけられ、遅延策などで阻止を図ったが、5月9日に受諾した。同年、側近の楊度に皇帝即位運動をさせて帝政を復活させ、翌1916年を洪憲元年とした。しかし学生が抗議し、地方の軍閥が反旗を翻し、北洋軍の諸将まで反発して、3月に帝政を廃止した。権威は戻らず、1916年6月6日、尿毒症と伝えられる病で、56歳で亡くなった。死後は軍閥割拠の時代に入った。
同じ年に亡くなった人物
- Alaiza Pashkievich (1916年没)
- トリフコ・グラベジュ (1916年没)
- コンコイ=テゲ・ミクローシュ (1916年没)
- シュテファン・ルキアン (1916年没)
- アドルフ・ツー・シャウムブルク=リッペ (1916年没)