伝記
デメトリオ・ディ・モンフェッラートは、テッサロニキ王国の第2代の王で、事実上最後の王である。1205年に生まれ、1230年にアマルフィで没した。初代国王でモンフェッラート侯のボニファーチョ1世と、東ローマ皇帝イサキオス2世の未亡人だったマルギトの息子である。生まれたときには、テッサロニキの守護聖人にちなんで、デメトリオと名づけられた。
1207年9月4日、父がブルガリア皇帝カロヤンの急襲を受けて戦死すると、幼い身で跡を継いだ。母のマルギトが摂政となった。カロヤンはただちにテッサロニキを包囲したが、カロヤンが暗殺されて、包囲は終わった。しかしデメトリオの統治は安定せず、王国の有力者たちは、ウンベルト・デ・ビアンドラーテに率いられ、デメトリオの異母兄である侯グリエルモ6世を王に立てようと企てた。ラテン皇帝アンリ1世は、これを止めようと、1208年12月にテッサロニキに進んだ。貴族たちは城門を閉ざし、無理な要求をしたが、皇帝は要求を受け入れるふりをして町に入り、1209年1月6日に、幼いデメトリオを王として戴冠させ、ロンバルディアの貴族たちから臣従の誓いを取り付けた。この措置は教皇インノケンティウス3世に認められた。ラテン皇帝は、1209年5月に、反対する貴族たちを屈服させた。デメトリオとその家臣は、アンリ1世の中央ギリシア遠征を助け、ラテン帝国とテッサロニキ王国の一体性は、かつてなく実現された。アンリ1世は、1210年にエピロスの攻撃を退け、弟のウスタシュを摂政としてデメトリオに残した。
しかし、エピロスの専制公ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスが、テッサリアのいくつかの都市を取り戻して、テッサロニキを脅かすようになった。1216年にアンリ1世が没すると、第2代のエピロス専制公テオドロス・ドゥーカスが勢いを増した。新しいラテン皇帝ピエール・ド・クルトネは、ロンバルディアの貴族たちに説かれて、グリエルモに王国を与えた。デメトリオは、1221年の末に、父の故国モンフェッラート侯国へ赴いて、救援を求めた。グリエルモは、異母弟の地位を奪うのをためらったが、1222年に十字軍を起こしてテッサロニキを助けることに同意した。しかし、1223年にテッサロニキはテオドロスに完全に包囲され、摂政だった母マルギトは、故国ハンガリーへ逃れた。
1224年12月、テオドロスはテッサロニキを占領し、デメトリオは、ラテン人の大司教とともに逃れて、皇帝フリードリヒ2世の宮廷に身を寄せた。翌1225年、異母兄グリエルモとともに、テッサロニキの奪回を目指して遠征したが、遠征軍は壊滅し、グリエルモは戦死した。デメトリオは、再びイタリアへ亡命した。亡命中もテッサロニキ王の称号を名のり続け、フリードリヒ2世の十字軍に加わった。1230年、アマルフィで没し、そのとき自らの称号をフリードリヒ2世に遺贈した。一方、甥のモンフェッラート侯ボニファーチョ2世は、別に家の称号として、テッサロニキ王号を持った。
同じ年に亡くなった人物
- マルコ1世サヌード (1227年)
- アイメリック・デ・ペギヤン (1227年(推定))
- 丘長春 (1227年没)
- ハインリヒ5世 (ライン宮中伯) (1227年没)
- ホノリウス3世 (ローマ教皇) (1227年没)
同じ地域に関係する人物
- ウラジーミル・ブルリューク (1917年没)
- ペルディッカス2世 (紀元前413年没)
- コンスタンティノス・ドゥーカス (1095年没)
- ゲオルギオス1世 (ギリシャ王) (1913年没)
- ブラシダス (紀元前422年没)