伝記
ホノリウス3世は、1148年ごろ(1150年ごろとも)に生まれ、1227年3月18日に没したローマ教皇(在位1216年〜1227年)である。出生名はチェンツィオ・サヴェッリといい、ローマの貴族サヴェッリ家に、アイメリコの子として生まれた。サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の律修司祭を務め、1189年12月5日に教会の財務を担う官職に就き、1193年に助祭枢機卿に任命された。クレメンス3世とケレスティヌス3世のもとでは財務官として教会の収入台帳をまとめ、1194年から1198年には代理の副尚書院長も務めた。1197年には、母コンスタンツェから教皇インノケンティウス3世に託された、シチリア王フェデリーコ1世のちの神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の家庭教師となった。1200年に司祭枢機卿に昇格している。
1216年7月16日にインノケンティウス3世が没すると、2日後に、居合わせた17人の枢機卿が集まって選挙を行った。イタリアの不穏な情勢と、離教の恐れから、枢機卿たちは委任による選出で合意し、選ばれたチェンツィオは、気の進まないまま教皇位を受け、ホノリウス3世と名乗った。8月31日にローマで戴冠している。ローマ出身で、極めて親切な人柄によって人々に慕われていたため、ローマ市民は選出を喜んだという。
教皇となると、第4ラテラン公会議で決議された十字軍の結成に力を尽くし、教会や修道院へ課税したり(教皇と枢機卿は収入の10分の1を3年間、他の聖職者は20分の1を拠出することとされた)、諸外国の調停に当たったりした。フィリップ2世とアラゴン王ハイメ1世の間を調停し、イングランド王ヘンリー3世を支持し、1217年4月にはピエール2世・ド・クルトネーにラテン帝国皇帝の冠を授けた。ところが、皇帝は東への旅の途中で捕らえられて亡くなった。かつての教え子フリードリヒ2世は十字軍への参加を約束しながら出発を先延ばしにし、他の王侯も呼びかけに応じなかった。1217年に出発した第5回十字軍は、ダミエッタを占領したが、教皇使節ペラギウスと諸侯の対立などで失敗した。1220年11月22日にはフリードリヒ2世に皇帝の冠を授け、1225年には十字軍への参加を促すため、彼とエルサレム女王イザベルの結婚を取り持った。スペインにも十字軍を命じたが、包囲戦はいずれも失敗し、1226年にはフランス王ルイ8世にアルビジョア十字軍への参加を求めた。
さらに、ドミニコ会やカルメル会を承認し、フランシスコ会の会則を認可し、ベギン会も承認した。『教皇列伝』の増補、書簡集、説教集のほか、1226年に教会法の最初の集大成とされる教令集が生まれた。セルビア王ステファン・ネマニッチにも王冠を授け、セルビア王国の地位を認めた。教皇が破門をちらつかせたため、1227年にフリードリヒ2世はようやく十字軍を率いることになったが、出発を待たずに教皇は3月18日に亡くなった。後を継いだグレゴリウス9世は強硬派で、十字軍の遅延を理由に皇帝を破門し、皇帝と教皇の関係は悪化した。後世には、彼の名を冠した魔法書が出回り、魔術師ではないかとの噂が生じたが、その理由には諸説がある。
同じ年に亡くなった人物
- Oliver von Paderborn (1227年没)
- デメトリオ・ディ・モンフェラート (1227年没)
- レシェク1世 (1227年没)
- スレイマン・シャー (1227年没)
- アブドゥッラー・アーディル (1227年没)
同じ地域に関係する人物
- マルクス・ウァレリウス・コルウス (紀元前270年没)
- プブリウス・セプティミウス・ゲタ (211年没)
- ウィリアム・アレン (1594年没)
- フランコ・チッティ (2016年没)
- ヤニス・クネリス (2017年没)