伝記
ペルディッカス2世は、アルゲアス朝のマケドニア王である。アレクサンドロス1世の子で、没したのは紀元前413年であり、在位は紀元前448年からとも紀元前454年からともいわれる。ペロポネソス戦争の間、アテナイとスパルタの間でたびたび同盟相手を変えた王として知られる。兄アルケタスから王位を奪ったとされ、のちにそのアルケタスは、ペルディッカスの庶子アルケラオスによって、息子ともども殺された。即位するとピリッポスと、エリミアの豪族デルダスが反乱を起こし、アテナイが彼らを支援した。紀元前432年、ペルディッカスはアテナイと対立するコリントスとともに、アテナイの同盟者だったポテイダイアなどトラキアの諸都市に離反を呼びかけた。ポテイダイア人らが蜂起すると、防衛のために点在する町を放棄させ、オリュントス市に集めた。アテナイとは一度和を結んだが、すぐポテイダイアと結んで騎兵200を送った。しかしポテイダイアの戦いでは連合軍がアテナイ軍に敗れ、この戦いはペロポネソス戦争の引き金の一つになった。ポテイダイアは封鎖され、紀元前430年に陥落した。
こうした対立には、紀元前437年のアンフィポリス建設が関わっていた。アテナイは軍船用の木材をマケドニアに頼っていたが、この建設で周辺の木材が使えるようになった。
紀元前431年、トラキアのオドリュサイの王シタルケスの仲介で、ペルディッカスはアテナイと和解して同盟を結んだ。アテナイは占領していたテルマを返し、ペルディッカスはポテイダイアを封鎖するアテナイ軍に加勢した。それでも反アテナイの熱は冷めず、紀元前429年のスパルタによるアカルナニア侵攻には、密かに援軍を送ったという。同じ年、シタルケスはピリッポスの子アミュンタスを王に据えようと、大軍でマケドニアに侵攻した。リュンコスやエリミアなどの地域がトラキア側についたため、ペルディッカスは人々を都城に避難させ、騎兵のゲリラ戦で応じた。侵攻から30日後、食料が尽きたことに加え、娘ストラトニケを嫁がせて味方につけたシタルケスの王子セウテスの説得もあり、シタルケスは撤退した。紀元前424年にはスパルタの将軍ブラシダスを迎え、その軍でリュンコスの豪族アラバイオスを討とうとした。しかしブラシダスは戦わずアラバイオスを味方にしたので、ペルディッカスは不満を抱き、軍の扶養の負担分を2分の1から3分の1に減らした。翌年には二人でリュンコスに遠征したが、味方のはずのイリュリア軍が敵側に寝返り、ペルディッカスは単独で撤退した。怒ったブラシダスがマケドニア領を荒らしたため、ペルディッカスはアテナイに接近して同盟を結んだ。アテナイは前年にブラシダスにアンフィポリスを奪われ、再び木材をマケドニアに頼る必要があり、この時マケドニアの櫂用材を独占的に輸入する特権を得た。
紀元前418年にはスパルタ陣営とも同盟し、アテナイに海上封鎖を受けた。しかし紀元前415年には、アテナイの将軍エウティオンとともにアンフィポリスを包囲しており、それまでにアテナイと和解したらしい。紀元前413年に没し、王位はアルケラオス1世が継いだ。
アテナイにとってマケドニアは木材の供給元であり、マケドニアにとってアテナイは最大の得意先だったが、アテナイの勢力が伸びればマケドニアの独立も脅かされた。ペルディッカスは両国の間で即かず離れずの関係を保とうとしたとされ、さしたる功績のない王とみなされがちだが、木材という切り札を使って巧みに立ちまわったと評されている。
同じ年に亡くなった人物
- ニキアス (紀元前413年没)
- デモステネス (将軍) (紀元前413年没)
- エウリュメドン (将軍) (紀元前413年没)
同じ地域に関係する人物
- アンリ1世 (ラテン皇帝) (1216年没)
- フィラ (紀元前286)
- アエロポス2世 (紀元前393年没)
- アルケタス2世 (マケドニア王) (紀元前448年没)
- アンドロニコス5世パレオロゴス (1407年没)