HISTORICAL PERSON · 1095年没

コンスタンティノス・ドゥーカス

ミカエル7世の子で、1074年頃の誕生後まもなく共同皇帝となった。ニケフォロス3世に外されてロベルト・グイスカルドの娘との婚約が破れ、侵攻の口実にされた。後にアレクシオス1世の娘アンナと婚約した。

生涯
1095年没
死亡地
ギリシャ共和国(中央マケドニア / セレス)
出生地
—
出典
世界地図
ギリシャ共和国(中央マケドニア)

伝記

コンスタンティノス・ドゥーカスは、東ローマ皇帝ミカエル7世と皇后マリアの子として、1074年頃に生まれた共同皇帝である。ドゥーカス家は帝国の古い貴族家系に属し、祖父コンスタンティノス10世も皇帝であった。母はジョージア王バグラト4世の娘である。父の在位中に大宮殿の紫の間で生まれたため、皇帝の治世に誕生した子を意味するポルフュロゲネトスの称号を持った。一人息子として生後まもなく戴冠し、父の後継者となった。ミカエル・プセルロスはその容貌を、丸い顔に大きな青灰色の目を備え、穏やかな表情をした子として描いている。またゲオルギオス・トルニケスは、皇帝らしい気品と身体の強さ、勇気を備えた人物であったと評した。同じ頃、アプリアのノルマン人君主ロベール・ギスカールの娘オリュンピアとの婚約が結ばれた。南イタリアの領土を奪い、帝国への進出を図るロベールに対し、婚姻関係を通じて侵攻を防ごうとする取り決めであった。

幼い共同皇帝を取り巻く政局は安定していなかった。父ミカエル7世は学問に傾き、実際の政務を財務を担うニケフォリツェスに委ねた。この大臣による穀物取引の国家独占や軍備の軽視は、不満と軍事力の弱体化を招いた。アナトリアではトルコ勢力が伸長し、反乱の鎮圧にもトルコ人を含む傭兵の力が必要となった。1077年から1078年には、ヨーロッパ側のニケフォロス・ブリュエンニオスとアジア側のニケフォロス・ボタネイアテスが、それぞれ皇位を目指して蜂起した。1078年に父が退位すると、コンスタンティノスは母とともにペトリオン修道院へ退いた。母はヨハネス・ドゥーカスの勧めで新帝ニケフォロス3世と再婚したが、息子を共同皇帝にするよう説得することはできなかった。オリュンピアとの婚約も破談となり、ロベールはこれを帝国侵攻の口実とした。

ノルマン軍への対処を任されたのがアレクシオス・コムネノスであった。かつてニケフォロス3世の即位を促したヨハネス・ドゥーカスも、今度はアレクシオスを支持して皇帝の打倒を図った。ニケフォロス3世はセルジューク朝やニケフォロス・メリセノスとの提携に失敗し、1081年に退位した。即位したアレクシオス1世は、コンスタンティノスを再び共同皇帝に据えた。さらに1083年、誕生して間もない自身の娘アンナ・コムネナを婚約者とし、彼を後継者として遇した。しかし1087年、皇帝と皇后エイレネの間に男子ヨハネスが生まれると、継承上の地位はその皇子に移った。共同皇帝としての地位を失ったのは1087年、あるいは1088年頃とされる。

その後はセレス近郊の所領に退いたが、アレクシオスへの忠誠を保った。皇帝が自分のもとに滞在した際には、企てられていた陰謀を知らせてもいる。死去は1094年8月12日とも1095年頃ともいわれる。婚約者であったアンナは後年、彼の美貌を生きた彫像にもたとえて書き残した。ハンガリー王ゲーザ1世に父ミカエル7世が贈った聖冠には、父やゲーザと並んで彼が表されたとも考えられている。ただし、この像を別の皇族コンスタンティオス・ドゥーカスとする見方もあり、誰を描いたものかは確定していない。

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