伝記
源実朝は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍で、歌人としても知られる。建久3年(1192年)8月9日に鎌倉で生まれた。父は幕府を開いた源頼朝、母は正妻の北条政子で、幼名は千幡という。誕生の年の12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れ、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べて、面々に千幡を抱かせた。建久10年(1199年)に父が没し、兄の頼家が将軍職を継いだ。
建仁3年(1203年)9月、比企能員の変で頼家が将軍職を失い、伊豆国に追われた。政子らは朝廷に、9月1日に頼家が死去したという偽りの報告をして、千幡への家督継承の許可を求め、朝廷は異例ながらこれに応じて、7日に千幡を従五位下・征夷大将軍に任じた。10月8日、北条時政邸で12歳で元服し、後鳥羽院の命名で、実朝と称した。翌年、兄の頼家は北条氏の刺客に暗殺された。元久元年(1204年)12月、京から、坊門信清の娘を御台所に迎えた。元久2年(1205年)、畠山重忠の乱が起こり、閏7月には、時政と牧の方夫妻が実朝を害そうとする謀計が知れ渡った。実朝は政子の命を受けた御家人たちに守られて、北条義時の邸へ逃れ、時政夫妻は出家させられて伊豆に追われた。執権職は義時が継いだ(牧氏事件)。承元2年(1208年)2月には疱瘡にかかり、回復まで2か月かかった。実朝はそれまで鶴岡八幡宮にたびたび参拝していたが、病の瘡痕を恥じて、以後3年間は参拝をやめた。承元3年(1209年)4月、従三位に叙せられ、公卿となって政所を開く資格を得て、自ら裁決する権限を行使し始めた。7月には藤原定家に和歌30首の評を請い、定家は「近代秀歌」を献じた。
建暦3年(1213年)には、頼家の遺児を大将軍にして義時を討とうとする泉親衡の企てが露見した。5月2日には、和田義盛が兵を挙げ、御所に火を放った(和田合戦)。実朝は大江広元とともに頼朝の墓所の法華堂に入り、広元に願書を書かせて、自筆の和歌2首を加えて八幡宮に奉った。義盛は討たれ、合戦は終わった。実朝は、定家から相伝の『万葉集』が届くと、「これに過ぎる重宝があろうか」と述べて賞玩した。『金槐和歌集』は、この年の暮れの奥書があり、このころにまとめられたと考えられる。
建保4年(1216年)6月、東大寺大仏の再建を行った宋人の僧陳和卿が鎌倉に来て、実朝を「権化の再誕」と拝み、前世は宋の医王山の長老だったと述べた。実朝は、かつて夢に現れた高僧が同じことを述べ、その夢を誰にも話していなかったので、その言葉を信じた。同じ年、権中納言に任ぜられ、昇進の早さを案じた義時と広元は、官職を辞して征夷大将軍だけでいるよう諫めたが、実朝は「源氏の正統はこの時に縮まり、子孫はこれを継ぐことができない。官職を帯びて家名を上げたい」と答えた。11月、前世の居所と信じる医王山を拝むため、渡宋を思い立って唐船の建造を命じ、義時と広元は諫めたが聞き入れなかった。翌建保5年(1217年)4月17日、完成した唐船を由比ヶ浜から海へ曳かせたが、船は浮かばず、砂浜で朽ちた。実朝は、武士として初めて右大臣に任ぜられたが、その翌年、鶴岡八幡宮で、頼家の子公暁に暗殺された。これにより、鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも「鎌倉右大臣」の名で選ばれている。
同じ年に亡くなった人物
- イナルチュク (1219年没)
- レヴォン2世 (1219年)
- ヨランド・ド・エノー (1219年没)
- ピエール2世・ド・クルトネー (1219年没)
- ユーグ9世・ド・リュジニャン (1219年没)