伝記
川端康成は、1899年6月14日に大阪市北区で、医師の父川端栄吉と母ゲンの長男として生まれた小説家・文芸評論家である。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。本人は6月11日生まれと最晩年まで信じており、7か月の早産だった。4歳上に姉の芳子がいた。父は肺を病んで虚弱で、自宅で開業医をしながら、漢詩文や文人画をたしなむ多趣味な人でもあった。1901年1月に、結核のため32歳で亡くなり、瀕死の床で「要耐忍 為康成書」という書を遺した。姉のためには「貞節」、康成のためには「保身」と記した。母も翌1902年1月に同じ病で亡くなった。幼くして両親を失った康成は、祖父三八郎と祖母カネに連れられて、原籍地の大阪府三島郡の旧家に移り、3歳で祖父母に引き取られた。姉の芳子は、母の妹の嫁ぎ先に預けられ、姉弟は離ればなれになった。
小学校に入った年の9月に祖母が亡くなり、祖父との二人暮らしとなった。別居していた姉は、1909年7月、13歳で夭折した。康成が会ったことのある姉は、都合二度しかなかったという。祖父は、悲しみながらも目の悪い身で孫のことを易で占い、10歳の康成は姉の訃報をしばらく祖父に隠したのち、決心して読んで聞かせた。祖父が、彼にとって唯一の肉親となった。幼い頃の康成は、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたため、「神童」と呼ばれることもあった。病弱で食が細く、1年生の時は258日のうち69日を欠席したが、成績はよく、作文が得意で、書物を濫読した。小学校の図書館の本は一冊も残さず読み、毎日のように庭の木に登って、樹上で本を読んだ。
1912年に茨木中学校に首席で入学し、約6キロの道を毎日歩いて通い、虚弱体質が改善された。夜になると家にいる寂しさに耐えられず、友人の兄弟の家に遊びに行き、温かい団欒に加えてもらった。中学2年の頃から作家を志し、亡き父の号にちなんで、新体詩などを『谷堂集』と題してまとめた。作家になることは祖父にも許され、田舎町の本屋に来る目ぼしい文学書は、ほとんど買った。しかし、学校の勉強は二の次となり、作文の成績が88人中86番に下がったともされる。中学3年の1914年5月、寝たきりだった祖父が73歳で亡くなった。この時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『十六歳の日記』として発表された。孤児となった彼は、周囲の同情に半ば素直に応え、半ば反発しつつ、「孤児根性」を強めていった。
東京帝国大学国文学科を卒業し、大学時代に菊池寛に認められて、文芸時評などで頭角を現した。横光利一らと同人誌『文藝時代』を創刊し、西欧の前衛文学を取り入れた「新感覚派」の作家として注目された。『伊豆の踊子』『浅草紅団』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』などを著し、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作家として、近代日本文学の代表者としての地位を築いた。新人発掘の名人でもあり、北條民雄や三島由紀夫らを後援した。茶器や陶器、仏像、埴輪、日本画などの古美術の蒐集家としても知られ、日本ペンクラブなどの活動にも力を尽くした。1972年4月16日の夜、72歳でガス自殺し、遺書はなかった。
同じ年に亡くなった人物
- Deniz Gezmis (1972年没)
- Georg von Braun (1972年没)
- Hubert A. Caldwell (1972年没)
- マリアン・ムーア (1972年没)
- ヘルムート・ケーニヒ (1972年没)