伝記
護良親王は、鎌倉時代末期から建武の新政期にかけて活動した皇族であり、僧侶、武将である。還俗する前の名は尊雲法親王といい、大塔宮とも呼ばれた。延慶元年(1308年)に、尊治親王、のちの後醍醐天皇の皇子として生まれた。一般には後醍醐天皇の第三皇子とされるが、第一皇子とする説もある。母は民部卿三位と呼ばれた女性で、出自は確定していない。六歳のころ尊雲法親王として天台宗の梶井門跡に入り、幼いころから聡明で、比叡山に入るとたちまち衆徒の信頼を集めたという。正中2年(1325年)に門跡を継ぎ、後醍醐天皇の画策により、嘉暦2年(1327年)12月から元徳元年(1329年)2月まで、同年12月から元徳2年(1330年)4月までの二度、天台座主となった。『太平記』では、仏教の修行や学問に関わらず、毎日僧兵と武芸の訓練に励む不思議な座主として描かれている。
元弘元年(1331年)8月、後醍醐天皇が討幕を図った元弘の乱が起こるが、計画は側近の吉田定房によって漏れた。尊雲法親王は、六波羅探題の手勢が東大寺に入ったことを知ると、天皇の身代わりに花山院師賢を比叡山へ上らせ、天皇を笠置山へ上らせて密かに行宮を設けた。9月2日に笠置山が幕府軍に囲まれて陥落し、天皇らは捕らえられて隠岐に流された。大塔宮は身を隠しながらも天皇に代わって令旨を発し、反幕府勢力を募った。般若寺に潜んでいた際には、探索に来た兵が経箱をひっくり返して調べたが、空の経箱に身を潜めた宮は二度とも見つからず、命拾いしたと伝えられる。
その後、一行は山伏の姿で熊野を目指した。赤松則祐や村上義光ら9人が従っていたが、熊野の別当が幕府寄りだったため、方向を変えて十津川に着いた。病人のいる豪族の家で宮が祈祷をすると病が治ったといい、そこで竹原八郎らが仲間に加わった。宮はここで還俗して護良親王となり、竹原八郎の娘を寵愛した。元弘2年(1332年)11月には吉野へ入り、畿内の寺社や土豪、武装商人に蜂起を促す令旨を大量に撒いた。のちには九州の原田氏や阿蘇氏、東国の新田氏にも令旨を送っている。
元弘3年(1333年)の1月か2月、護良親王は吉野城に3000の兵で挙兵し、千早城の楠木正成と呼応した。二階堂道蘊の率いる6万の軍と戦ったが不利となり、2月18日に7本の矢を受けて自害しようとしたとき、重傷を負っていた村上義光が親王の甲冑を着て身代わりに自害した。親王は高野山へ落ち延び、吉野、十津川、宇陀の武士が七千騎ほど集まった。3月12日には赤松円心らと京都を攻めたが敗れた。4月に後醍醐天皇が隠岐を脱出し、5月7日に六波羅探題が陥落した。5月22日には新田義貞が親王の令旨を受けて鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅んだ。
6月5日、後醍醐天皇が京都の内裏に入った凱旋の行列に、護良親王の姿はなかった。親王は、自分が苦労して導いた京都の合戦が、いつの間にか天皇と足利尊氏の戦いになったことに不満を抱いていた。天皇は親王が担ってきた役割を回収しようとしていた。建武の新政で征夷大将軍に任じられたものの、尊氏を疎む親王は、武士を好み尊氏を寵愛した父とすれ違うことが多くなり、将軍を解任されて失脚し、鎌倉に幽閉された。そして1335年、中先代の乱の混乱のなかで、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。
同じ年に亡くなった人物
- リクサ・エルジュビェタ (1335年没)
- Luther von Braunschweig (1335年)
- ニケフォロス・カリストス・カントポウロス (1335年)
- ジョヴァンニ2世オルシーニ (1335年没)
- ダナシリ (1335年没)