伝記
李克は、中国の戦国時代、魏の文侯に仕えた政治家である。李悝とも呼ばれる。生年は紀元前455年ごろ、没年は紀元前395年とされ、魏を戦国最初の覇国に押し上げる助けをした人物として知られる。もとは儒家の子夏の門弟だったが、のちの業績から法家に分類される。儒家の側から見れば転向者にあたる。魏が諸侯として正式に認められる前から文侯に仕えていたが、若いころのことはほとんど分かっていない。若き君主である文侯の師であり、紀元前425年に文侯が侯の称号を受けるのに力を貸したともされる。紀元前422年、魏の支配地の宰相に任じられ、行政や政治の改革に着手した。これによって魏は、戦国七雄のなかで、貴族が支配する体制ではなく官僚による統治へ最初に踏み出した国になった。
改革の柱の一つは、官吏の選抜を世襲や家柄ではなく能力によって行うことだった。これは貴族の力を弱めつつ、政治の効率を高めた。李克は、鄴の周辺で水利事業を担う者として西門豹を推薦した。西門豹も子夏の門弟でありながら法家に分類される人物で、李克と同時代に運河や灌漑の工事を監督した。また、魏に身を寄せようとした呉起を軍事指揮官として推薦したことも伝わる。文侯が呉起を登用しようとしたとき、李克にその是非を問うた。李克は「呉起は欲が深いが、用兵は巧みです」と答え、呉起は登用された。
農業では、国が積極的に関与して「地力を尽くす教え」を進めた。その詳しい内容は不明だが、農法の普及を通じて、より生産性の高い耕作を促すものだった可能性がある。また「平籴法」を設けた。豊作の年に国が穀物を買い入れて倉を満たし、価格の変動をやわらげて飢饉に備える制度である。こうして穀物の価格を調整し、農民の生産意欲を高めたといわれる。さらに、1畝あたりの平均収量を1.5石と見積もり、農民の平均的な耕地である100畝について、その収穫の十分の一にあたる15石を課税の基準にしたとする説明もある。これは農家経営の強化と生産の増加につながり、魏の経済を押し上げたとされ、その手法は後に秦に取り入れられ、漢代にも反映したという。
法の整備も大きな仕事で、成文法を制定して富国強兵を成し遂げたとされる。紀元前407年に『法経』を著したと伝わり、各国の法を集めて整理したものといわれる。盗賊の取り締まりを君主の統治にとって最も急ぐべきこととして、法は「盗」と「賊」の編から始まり、逮捕と拘禁の手続きを定めた編、詐欺や賭博などを扱う雑法の編、刑罰を加減する原則を述べた編が続くとされる。ほかに『李子』三十二編を著したともいう。ただし『法経』の実在には疑問も示されている。このほか李克は、奴隷制をゆるめ、慣習よりも法を重んじる方向へ進めることにも寄与したといわれ、趙や韓との同盟も取り結んだとされる。
こうした改革の結果、魏は戦国初期に覇を唱えた。経済力を背景に、紀元前413年から前409年には秦に、紀元前404年には斉に勝ち、趙や韓とともに楚への遠征も行った。法を礼に優先させ、農業生産を重んじ、能力による官僚政治で国家が経済や社会に関わるという李克の方針は、のちの改革者に受け継がれた。李克の死からおよそ30年後、商鞅が秦に仕官を求めたとき、『法経』の写しを携えていたとされる。それが秦の法典へと発展した。李克の政策は商鞅に継承され、その思想は韓非らが大成する法家の源流になったとされる。