HISTORICAL PERSON · 紀元前119年没

ガイウス・パピリウス・カルボ

紀元前120年に執政官を務めた共和政ローマの政治家。弁論家として名を成し、当初はグラックス兄弟側で活動したが、のち元老院側に移ってオピミウスを弁護し、裏切りとみなされて訴追され自殺した。

生涯
紀元前119年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ガイウス・パピリウス・カルボは、紀元前2世紀後期の共和政ローマの政治家である。生没年は不詳で、紀元前120年に執政官を務めた。弁論家として名を成し、グラックス兄弟の側に立って活動したが、のちに彼らを裏切ったとみなされて訴追され、紀元前119年に命を落とした。

家は平民系のパピリウス氏族で、紀元前168年の法務官ガイウス・パピリウス・カルボが父または祖父の可能性がある。弟には紀元前113年の執政官グナエウス・パピリウス・カルボがおり、息子にガイウス・パピリウス・カルボ・アルウィナがいる。キケロはカルボをティベリウス・センプロニウス・グラックスとほぼ同い年としており、そこから生年は紀元前162年頃と推定されている。特別な教育を受けたわけではないが、若いころから弁論の才を示した。当時は裁判の数が急増しており、カルボは最高の弁護人となって、キケロによれば「フォルムに君臨した」。

政治活動は紀元前130年代後半に始まった。紀元前133年に農地改革を始めたグラックス兄の支持者となり、紀元前132年末の選挙で当選して、紀元前131年(紀元前130年とする説もある)に護民官を務めた。ウァレリウス・マクシムスによれば、その権限を使って「復讐者」のようにふるまったという。ヌマンティア戦争に勝って帰国したスキピオ・アエミリアヌスに、民会でグラックス殺害をどう思うかと問い、スキピオは「グラックスが国家を掌握しようとしていたなら殺害は正当」と答えた。この質問は民衆と英雄の間に楔を打ち込む狙いだったと考えられている。また無記名投票を民会の法案の採決にも広げる法を通したとされる。護民官の再選を認める法案も出したが、スキピオの反対で退けられた。紀元前130年には農地法委員会の一員となり、グラックス弟やマルクス・フルウィウス・フラックスとともに活動した。紀元前129年にスキピオが急死すると暗殺の噂が広まり、カルボも関与を疑われたが、公式な調査は行われなかった。その後9年間の記録はなく、遅くとも紀元前123年には法務官を務めたはずである。

ある時点でカルボは「改革派」から元老院の側に移った。グラックス弟と執政官ルキウス・オピミウスの戦闘の前夜だったという説がある。グラックス弟の死後はコロニア・ユノニアの建設責任者となり、紀元前120年に平民系パピリウス氏族として初めて執政官となった。同僚はプブリウス・マニリウスである。就任後すぐ、護民官プブリウス・デキウスが正式な裁判なしにローマ市民を処刑したとしてオピミウスを告訴すると、カルボは弁護人を務めた。グラックスとフラックスの殺害が合法で祖国のためだったと主張し、オピミウスは無罪となった。この弁護は彼の最高の演説の一つとなったが、かつての友人や同盟者への報復を正当化したことで人々の反感を買い、キケロによれば立場の変更で民衆の信頼を失った。

翌紀元前119年、21歳のルキウス・リキニウス・クラッススに告訴された。保守派の元老院議員の支持があったとされ、護民官の再選を正当化しようとしたこと、スキピオの死への関与の噂、反逆者としての非難が取り上げられた。カルボは有罪となり追放を宣告されたが、毒薬カンタリジンを飲んで自殺したとされる。ウァレリウス・マクシムスは自殺ではなく亡命したと伝える。息子アルウィナは父を有罪にしたクラッススの終生の敵となった。キケロはカルボを、力強く機知に富んだ当代随一の弁論家と評しているが、弁論の原稿は残っていない。

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