伝記
ペトロニウス・マクシムスは、396年頃に生まれ、455年に西ローマ皇帝として在位したわずか2か月半の皇帝である。確かな出自は不明だが、名門の家に属していたと考えられている。父はおそらくアニキウス・プロビヌスで、イリュリクムやガリアの長官を歴任し、395年に執政官となった人物である。母方を通じて簒奪者マグヌス・マクシムスの孫にあたるとの伝えもあるが、疑問視する近代の歴史家もいる。若くから官界に入り、411年頃に法務官、415年に護民官付、416年から419年のあいだに帝室財務長官を務めた。その後は首都長官を二度、近衛軍団長官を務め、433年と443年には執政官に選ばれた。445年には貴族に叙され、ローマのカエリウスの丘に公共広場を建てている。この年、彼は西ローマで最高の名誉ある地位にあったが、翌年に軍務長官アエティウスが三度目の執政官となって、その座を譲ることになった。
歴史家の記述によれば、マクシムスは皇帝ウァレンティニアヌス3世をそそのかしてアエティウスを排除させた。アンティオキアのヨハネスの年代記には、次のような話が残る。賭博に負けたマクシムスは指輪を取られ、皇帝はその指輪を使って、かねて思いを寄せていた美しい妻を宮廷に呼び出して辱めた。妻から責められた彼は復讐を誓い、皇帝に取って代わる野心を抱いたという。また、皇帝の宦官である侍従長ヘラクリウスと共謀し、アエティウスが皇帝の暗殺を企てていると吹き込んだとされる。454年9月、皇帝は会合の席でアエティウスを自ら刺殺した。
ところがマクシムスは、空いた軍務長官の職を望んで皇帝に断られた。ヘラクリウスが、アエティウスの権力を誰にも渡すなと助言していたためだという。彼は苛立ち、アエティウスの元部下で皇帝の護衛となっていたスキタイ人のオプティラとトラウスティラを、元上官の仇を討つよう説き伏せ、報酬も約束した。455年3月16日、皇帝はカンプス・マルティウスで弓の訓練のために馬から降りたところを襲われて命を落とし、ヘラクリウスも殺された。帝冠と紫衣はマクシムスのもとへ届けられた。後継をめぐって軍は三派に割れたが、元老院の支持を得たマクシムスが競争に勝ち、3月17日に即位した。彼は帝位を固めようと、廷臣たちに金をばらまいた。
即位後は、亡き皇帝の未亡人リキニア・エウドクシアと結婚した。彼女は夫の暗殺に彼が関わったと疑い、不承不承受け入れたとされる。東ローマ宮廷は即位を認めず、彼はアウィトゥスを軍司令官に任じてトゥールーズの西ゴート族のもとへ送り、支援を求めた。さらに皇女エウドキアを自分の息子パッラディウスと結婚させたが、皇女はヴァンダル王子フネリックとの縁組が決まっていたようである。エウドクシアがヴァンダル宮廷に助けを求めたことも重なり、ヴァンダル王ガイセリックは口実を得てイタリアへ出帆した。
5月にその知らせが届くとローマは恐慌に陥り、多くの住民が逃げ出した。皇帝は有効な手を打てず、西ゴート族の援軍も間に合わなかった。逃亡を図ったが護衛や側近に見捨てられ、455年5月31日、街頭で怒った群衆に石を投げられて死んだ。遺体は切り刻まれてテヴェレ川に投げ込まれたと伝わる。在位は75日間だった。その2日後にガイセリックがローマに入り、2週間にわたって略奪を行った。教皇レオ1世の懇願を受けて放火や殺人は控えたが、皇后と二人の皇女を連れ去った。空位ののち、アウィトゥスが7月9日に皇帝を宣言した。
同じ年に亡くなった人物
- クマーラグプタ1世 (455年)
- Arnobius the Younger (455年)
- パラディウス (455年没)
- 毗有王 (455年没)
- ウァレンティニアヌス3世 (455年没)
同じ地域に関係する人物
- ガイウス・セルウィリウス・グラウキア (紀元前99)
- アタナシウス・キルヒャー (1680年没)
- フンベルトゥス (1061年没)
- ゲラシウス1世 (ローマ教皇) (496年没)
- オレスト・キプレンスキー (1836年没)