伝記
ヒッパルコスは、古代ギリシアの天文学者であり、地理学者、数学者でもある。紀元前190年ごろに生まれ、紀元前120年ごろに没したとされる。ビテュニアのニカイアに生まれ、晩年の多くをロドス島で過ごして、おそらくそこで亡くなった。正確な生没年はわかっていない。プトレマイオスは紀元前147年から127年のあいだの天文観測を彼のものとしており、その一部はロドスで行われたと記される。紀元前162年からの観測も彼自身のものかもしれない。アレクサンドリアやバビロニアからも情報を得ていたが、そこを訪れたのかどうかは不明である。2世紀から3世紀にかけて、ビテュニアでは彼をたたえる貨幣が造られ、地球儀とともに描かれた。
彼の著作はほとんど伝わらない。少なくとも14冊の書物を著したが、後世の写本として残ったのは、アラトスの天文詩についての注釈書だけである。ほかの業績は、ストラボンの『地理誌』、プリニウスの『博物誌』、プトレマイオスの『アルマゲスト』などの引用から知られる。『アルマゲスト』で最も多く引用されているのがヒッパルコスであることから、天動説を含む古代天文学の体系を築いたのは彼だという説もあるが、決定的な証明はない。彼はバビロニアの天文知識や技法を体系的に利用した最初の人物だったらしく、先人の観測の蓄積を生かして、太陽と月の運行について、数量的で正確な理論を示した。その模型が残る最初の人物である。
主な業績としては、まず春分点歳差の発見が挙げられる。この発見は紀元前146年から127年のこととされ、『至点及び分点の決定について』と『一年の長さについて』の二冊を書いた。プトレマイオスによると、スピカやレグルスなど明るい星の経度を測り、先人チモカリスらの記録と比べて、スピカが秋分点の方へ相対的に2度動いたと結論した。また太陽年と恒星年の長さを比べ、両者が完全には一致しないことに気づき、春分点と秋分点が黄道に沿って進み、その割合は1世紀に少なくとも1度あると結論づけたという。そのほか、恒星を1等星から6等星の6段階に分け、これは視等級として現代にも続く。三角法による測量を行い、最初の三角関数表を作ったとみられるため、三角法の父と呼ばれる。メトン周期の改良も行った。西方世界で最初の包括的な星表を作ったともされ、その星表はプトレマイオスのものに組み込まれた。天体観測機器のアストロラーベも発明したとみられ、アンティキティラ島の機械は彼の理論に基づくともいわれる。
地理学でも功績を残した。『エラトステネスの地理学への反論』三巻を著したが現存せず、内容の多くはストラボンから知られる。地理的位置の不正確さや内部の矛盾を厳しく批判し、地図は天文学的に測定した緯度と経度だけに基づくべきで、未知の距離は三角法で求めるべきだと主張した。地理座標系を初めて用い、緯度を太陽の傾きだけでなく星の観測からも決め、離れた地点で月食を同時に観察して経度を決める方法を示した。「気候表」では数十か所の緯度を一覧にし、黄道傾斜を23度40分とした。この値は当時の推定値23度43分に近く、他の古代の学者が24度を用い、プトレマイオスさえ23度51分としたなかで、きわだって正確だった。
その考察はプトレマイオスの『ゲオグラフィア』に見られ、同書は彼が示した地理学のあり方を実現しようとした成果とされる。1817年にはドランブルが彼を「天文学の父」と呼んだ。1989年に打ち上げられ、年周視差を精密に測った人工衛星は、ヒッパルコス衛星と名づけられた。
同じ年に亡くなった人物
- クリトラオス (紀元前119)
- アテーナイのアポロドーロス (紀元前 119年)
- ガイウス・パピリウス・カルボ (紀元前119年没)
- ポリュビオス (紀元前 119年)
- ヒュプシクレス (紀元前119)
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