HISTORICAL PERSON · 紀元前121年没

マルクス・フルウィウス・フラックス (紀元前125年の執政官)

共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前125年の執政官。グラックス兄弟の盟友で、リグリア人に勝って凱旋式を挙行し、護民官としてガイウス・グラックスを支援した。元老院最終勧告に基づく武力鎮圧で殺された。

生涯
紀元前121年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

マルクス・フルウィウス・フラックスは、共和政ローマの政治家であり軍人である。紀元前121年に没した。紀元前125年に執政官を務め、グラックス兄弟の盟友で、最初期のポプラレス(民衆派)の一人とされる。

フラックスは平民のフルウィウス氏族の出身である。この氏族は紀元前4世紀の中ごろにトゥスクルムからローマへ移り、紀元前322年にルキウス・フルウィウス・コルウスが氏族で最初の執政官となった。家名のフラックスは、紀元前264年に執政官を務めたマルクス・フルウィウス・フラックスに始まり、この人物はフラックスの曽祖父にあたる。祖父のクィントゥスは執政官を4回務めたが、父マルクスは紀元前180年に軍務官を務めたものの、不祥事のため元老院から追放されて高位の官職に就けなかった。叔父のクィントゥス・フルウィウス・フラックスとルキウス・マンリウス・アキディヌス・フルウィアヌスは、紀元前179年に実の兄弟でそろって執政官になっている。

フラックスは、ティベリウス・グラックスの農地法に基づく土地分配三人委員の一人となり、紀元前130年までにその職に就いて、死ぬまで保ったという。この立場から、同盟諸都市が求めた境界紛争の裁判権を委員会から執政官へ移そうとするスキピオ・アエミリアヌスの試みに反対した。法務官も紀元前128年より前に務めたとされる。同盟都市間の土地分配問題の解決策として、イタリアの同盟者個人にローマ市民権を与える案を示し、後々までローマ政治を悩ませる市民権問題を持ち込んだ。この政策で人気を得て、紀元前125年に執政官に当選した。元老院はその改革を阻むため、サリエスの略奪からマッシリア(現在のマルセイユ)を守るよう命じ、彼をローマから遠ざけた。フラックスはアルプスの向こうのガリアで、リグリア人に初めて戦いで勝利した人物となり、ローマに戻った紀元前123年に凱旋式を挙行した。ただし勝利は決定的ではなく、翌年には別の執政官が送られて現地の部族を抑えたという。

紀元前122年にはガイウス・グラックスを助けるため護民官となり、農地法の復活と、イタリア本土の住民への市民権付与条件の改定を試みた。執政官経験者が護民官になったのは、これが初めてだった。市民権法案は、ガイウス・ファンニウスやドルススらの反対で否決された。フラックスはカルタゴの跡地に植民都市コロニア・ユノニアの建設を始め、翌紀元前121年の護民官選挙にも立った。しかし門閥派は、紀元前125年に提案した政策が実施されていないことや、カルタゴの植民地建設をめぐる疑惑、小スキピオ暗殺の疑惑を持ち出して攻撃し、フラックスもガイウスも落選した。

フラックスはアウェンティヌスの丘で大規模な抗議運動を行った。元老院は史上初の元老院最終勧告を宣言し、これに基づいて執政官ルキウス・オピミウスが武力で鎮圧した。参加者の多くが殺傷され、フラックスも殺された。逮捕後に処刑されたともいわれる。ガイウスは自殺した。長男は浴場跡か工場跡に隠れているところを見つかって処刑され、まだ若かった次男のクィントゥスも、抗議の際に父と兄の使者として元老院へ遣わされただけだったが処刑された。ただしオピミウスは、クィントゥス自身に死刑の方法を選ばせたという。娘の一人は紀元前90年の執政官ルキウス・ユリウス・カエサルと結婚した。プルタルコスはフラックスを生まれながらの扇動者と描いたが、キケロは雄弁家ではあるが穏健で、弁舌の徒というより文字の徒と評した。

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