伝記
アルフォンソ13世は、1886年5月17日にマドリードの王宮で生まれたスペイン国王で、復古王政期の最後の国王である。父アルフォンソ12世は前年の11月に亡くなっており、唯一の男子だった彼は、生まれると同時に国王となった。生まれた直後、裸のまま銀の盆に載せられて首相のサガスタのもとへ運ばれたという。祝砲は男子なら21発、女子なら15発と前もって市民に知らされていたため、16発目が聞こえた瞬間にマドリード市民は歓喜した。幼君のため母マリア・クリスティーナ王太后が摂政を務め、その間の1898年に米西戦争でスペインはキューバやフィリピンなどの植民地を失った。1889年から1890年の流行病では重く病んだが、回復した。
国外で学べなかったため、国内で高位の軍人や貴族、聖職者から帝王学を授けられ、ドイツ語、フランス語、英語、イタリア語を習得した。軍人としての教育が強く、愛国心を持つ「軍人王」を自任したが、閉鎖的で伝統主義的な王宮で教育を受けたにもかかわらず、自由主義的な精神も身につけた。1902年に16歳となって親政を開始し、5月17日に憲法に宣誓した。外国をしばしば訪れ、1905年のイギリス旅行で、ヴィクトリア女王の孫娘であるバッテンバーグ家のヴィクトリア・ユージェニーと出会った。相手はプロテスタントで、カトリックへの改宗が必要であり、兄が血友病でもあったが、1906年5月31日に結婚した。イギリスでは改宗への批判が、スペインでは方便ではないかという攻撃が起こった。
婚礼の後、無蓋の馬車でパレードに移った新婚の二人に、沿道の人垣から男が爆弾を投げた。馬車には当たらず路上で爆発したが、警護の兵士と観衆31人が命を落とした。国王夫妻は無事で、犯人は逮捕前に自殺し、調べの結果、無政府主義者とわかった。翌日、王妃は予定どおり闘牛見物に出て勇気を示し、民衆の中での立場を強めた。夫妻には5男2女が生まれたが、長男アルフォンソと末息子ゴンサーロは血友病に冒された。
第一次世界大戦が始まると、母がオーストリア帝室の出で、王妃がイギリス王室につながっていたことから、「絶対中立」を宣言した。軍需産業は栄え、異例の貿易黒字を記録したが、恩恵を受けたのはブルジョワジーばかりで、物価の高騰が一般市民の生活を苦しめた。国王は社会改革の努力もしたが、テロで政府高官が次々と暗殺され、統治は旧来の抑圧に傾いた。1923年には、権威主義体制による王権の維持を目指し、プリモ・デ・リベラ将軍を登用した。彼が失脚した後の1931年4月12日の選挙では共和派が圧勝し、4月14日に退位が伝えられると、市民は国王の肖像やブルボン家の紋章を投げ捨てて火にくべた。国王は亡命を決断し、マルセイユを経て、4月16日に列車でパリへ到着した。
亡命先のローマで死の直前の1941年に退位し、名目上の王位を四男フアンに譲り、同年2月28日に亡くなった。スペインで王政が復活したのは亡命から44年後の1975年で、フアンの息子フアン・カルロスが即位した。最後のオーストリア皇帝カール1世の遺族を、スペイン国内に招いて手厚く庇護した逸話も伝わる。1921年にはパリで、のちの昭和天皇と昼食を共にしたという。
同じ年に亡くなった人物
- ルドルフ・ヒルファディング (1941年没)
- カタジナ・ラジヴィウ (1941年没)
- ガットスン・ボーグラム (1941年没)
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- タデウシ・ジェレニスキー (1941年没)
同じ地域に関係する人物
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- ノウァティアヌス (対立教皇) (258年没)
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