伝記
ウィリアトゥス(ポルトガル語・スペイン語ではヴィリアート)は、ローマの拡大に抵抗したルシタニア人の最も重要な指導者である。ルシタニアは現在のポルトガルにあたる地域で、彼は紀元前139年に死んだとされる。他のケルト系集団とも同盟を結び、遠く離れた土地の人々にまでローマへの反乱を促したという。ルシタニア人とウェットン人の多くの部族、さらにケルト系やイベリア系の同盟者に支えられた軍を率い、紀元前147年から紀元前139年にかけてローマ軍に何度も勝利した。ドイツの歴史家モムゼンは「この徹底して散文的な時代に、ホメロスの英雄の一人が再び現れたかのようだ」と評した。
名のウィリアトゥスは、「男」や「勇者」を意味するインド・ヨーロッパ語系の語に由来するとも、戦士が身につけた捻じれた腕輪を指す語に由来するともいわれ、研究者シュルテンはケルト系の名と見た。ケルトの支配層は「最高の男」を意味する称号を用いていたという。だが、その生涯はほとんど分かっていない。出身部族の所在を示す記述は、ギリシアの歴史家ディオドロスのものだけで、大西洋岸のルシタニア人の部族の出だとされる。一方で、ルシタニア中心部のヘルミニウス山(現在のエストレラ山脈)や、ベイラ・アルタ地方の出身だと主張する者もいる。彼は少数の支配層である戦士階級に属した。ローマ人には、ルシタニア軍の指揮官、ルシタニアの守護者、あるいは同盟したルシタニア人とケルティベリア人の最高司令官などと呼ばれた。リウィウスは、羊飼いから狩人、さらに兵士になった人物と描いたが、これは牛の略奪や狩り、戦いに打ち込む若い戦士層の歩む道でもあった。
アッピアノスによれば、紀元前150年にローマの総督ガルバがルシタニアの若い戦士の精鋭を虐殺したとき、ウィリアトゥスは逃れた数少ない一人だった。その2年後の紀元前148年、彼はルシタニア軍の指導者となった。出自が非常に不明瞭だったと考える者もいるが、ディオドロスは彼が自分を君主にふさわしい者と示し、「すべての主であり持ち主」だと語ったとも伝えている。ローマ人は土着の貴族的な戦士社会に通じていたが、その家系は知られていなかった。
古代の著述家たちは、その人柄や体力、知力、戦士としての技量を記している。強靭な体力をもつ盛りの男で、すぐれた戦略家であり、聡明だったという。誠実さと公正さを重んじ、結んだ条約や同盟に正確で、約束に忠実だと認められていた。リウィウスは彼を「偉大な人物にして指揮官」と呼んだ。カッシウス・ディオによれば、権力や富を求めず、軍事的名誉のために戦った。略奪品や物質的利益を目当てにする普通の兵士とは違い、その目的は当時のローマ貴族の理想に近かったともいわれる。ルシタニア人は彼を恩人、救い主という、プトレマイオス朝のような王が用いるヘレニズム風の称号で称えた。
最期は裏切りによるものだった。ローマ側に裏切られ、眠っているところを殺害されたと伝えられる。その生涯と対ローマ戦の多くは伝説の一部となっており、イベリアの諸部族連合を率いてローマに抵抗した人物として、最初期のポルトガルの民族的英雄とみなされている。詩人シリウス・イタリクスの叙事詩『プニカ』には、ハンニバルと同時代のウィリアトゥスが登場し、ガッラエキア人とルシタニア人の指導者とされるが、史上のウィリアトゥスは「イベリアの地の寛大な支配者」の称号を受けた人物だとの説がある。アッピアノスは、彼が多数のローマ人を殺し、大きな技量を示したと記した。
同じ年に亡くなった人物
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