伝記
ミトラダテス1世は、アルサケス朝パルティア王国の王で、小王国だったパルティアを大国へ押し上げた人物である。在位は紀元前171年から紀元前138年とも、紀元前165年から紀元前132年ともされ、没年にも紀元前138年または紀元前137年、紀元前132年という説がある。プリアパティオスの子で、先王フラーテス1世の弟にあたる。名は「ミトラ神に与えられた者」を意味するイラン系の名で、ミトラ神を讃える名をもつ最初のパルティア王であった。パルティアでは王位は王自身の子が継ぐ慣習だったが、フラーテス1世はこれを破って弟を後継に指名した。ローマの歴史家ユスティヌスによれば、その優れた力量に気づいたためだという。
ミトラダテスが受け継いだ王国は、ホラーサーン、ヒュルカニア、イラン北部、トルクメニスタン南部にまたがる中規模の勢力で、セレウコス朝の衰えとともに台頭した諸王国の一つにすぎなかった。彼はまず東のグレコ・バクトリア王国に目を向けた。同国は周辺諸民族との戦いで弱っており、新王エウクラティデス1世が王位を簒奪したため反発も受けていた。紀元前163年から紀元前155年のどこかでミトラダテスは侵攻し、アリア、マルギアナ、バクトリア西部を奪った。メルヴは北東における支配の拠点となった。象を裏面に描いた青銅貨には「大王アルサケスの」の銘があり、バクトリア征服を祝うものだった可能性が指摘されている。
続いて西のセレウコス朝領に向かい、メディアに侵入してエクバタナを占領した。時期は紀元前148年か紀元前147年ともされ、紀元前161年から紀元前155年の戦いの末に勝ったとも伝えられる。弟バカシスをその地の総督に任じ、メディア・アトロパテネも征服した。紀元前141年にはメソポタミアのバビロニアを押さえ、セレウキアで貨幣を鋳造し、正式な即位式を行った。このときバビロンの新年祭で、マルドゥク神の像が女神イシュタルに手を引かれて行列路を進む行事を導入したようである。同年7月頃にはセレウキアで王として認められ、約3か月後にはウルクでも主権が認められた。その後ヒュルカニアに退き、軍はエリマイスやカラケネを従え、スーサを占領した。支配はインダス川にまで及んだとされる。彼は古いアケメネス朝の称号「諸王の王」を初めて名乗ったパルティア王であり、キュロス大王にたとえられる。
その冬、東の国境でサカ族が侵入したため、ミトラダテスはメソポタミアを将軍に託してヒュルカニアへ向かった。これを見て、セレウコス朝のデメトリオス2世ニカトルは失地回復のためパルティアに攻め込み、何度か勝利したが、やがて敗れて紀元前138年に捕らえられた。デメトリオスは支援した諸都市の街路を引き回されたのち、ヒュルカニアのミトラダテスのもとへ送られた。ミトラダテスは身分にふさわしく遇し、娘ロドグネを妻として与えた。
ミトラダテスは次に、デメトリオスを助けた者たちの処罰に移った。エリマイスでは神殿の財宝を奪い、アテナとアルテミスの神殿の略奪品だけで1万タラントを超えたという。ペルシスも臣従させた。支配の中心はイラン東部からメソポタミアへ移り、セレウキア、エクバタナ、クテシフォンなどに王の住まいが置かれた。最初の首都はヘカトンピュロスだったが、そこから支配の重心が移ったのである。最期は静かに生涯を閉じたと伝えられる。死後は子のフラーテス2世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アッタロス2世 (紀元前138年没)
- ヴィリアトゥス (紀元前138)
- ディオドトス・トリュフォン (紀元前138年没)
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