伝記
イブン・ルシュドは、スペインのコルドバに生まれた哲学者・医学者で、ラテン名のアヴェロエスでもよく知られる。ムワッヒド朝のもとで君主の侍医やコルドバの裁判官を務め、アリストテレスの膨大な注釈を著した人物である。1126年、宗教と法の分野で名高い家に生まれた。祖父は同名の人物でコルドバの最高裁判官であり、ムラービト朝時代には大モスクのイマームも務めた。父も1146年にムラービト朝がムワッヒド朝に代わるまで同じく最高判事であった。教育はハディース、法学、医学、神学から始まり、マーリク学派の法学やハディースを学んだほか、医学を修め、哲学にも触れた。哲学者イブン・バーッジャの著作も知っており、セビリアでは哲学者や医師、詩人の集まりにも顔を出したとされる。
1153年まではムワッヒド朝の首都マラケシュにいて天体観測を行い、新しい大学の計画を支援した。滞在中に、『ハイイ・ブン・ヤクザーン物語』の著者で宮廷医のイブン・トゥファイルと出会った可能性があり、二人は哲学の違いを越えて友情を結んだ。1169年、イブン・トゥファイルの紹介で、カリフのアブー・ヤアクーブ・ユースフに会った。カリフは、天界は無始の昔から存在したのか、始まりがあったのかと尋ねたが、この問いは教理上危うく、イブン・ルシュドは答えなかった。だがカリフがイブン・トゥファイルと哲学者たちの見解を語り合うのを見て安心し、自らの見解を述べて感銘を与えた。カリフがアリストテレスの難解さを嘆き、注解を勧めたことが、膨大な注釈の始まりとなり、最初の作品は1169年に書かれた。同年にセビリアの裁判官に任命され、1171年にはコルドバの裁判官となって、シャリーアに基づき事件を裁き、ファトワーを出した。1182年にはイブン・トゥファイルの後を継いで一時的に宮廷医となり、同年、祖父がかつて務めたコルドバのマーリク派最高判事にも任命された。
著作は哲学、医学、法学、言語学など多岐にわたり、ルナンによれば少なくとも67点に及ぶ。その多くはアリストテレスの解説で、小・中・大の三種の註解に分けられる。政治学は入手できず、代わりにプラトンの『国家』を注釈した。ガザーリーが『哲学者の矛盾』で哲学を攻撃すると、哲学者の側から『矛盾の矛盾』を著して反論し、哲学と宗教は調和しうると訴えた。原典の多くはヘブライ語やラテン語の訳で伝わり、中世ヨーロッパのスコラ学者に影響を与えてラテン・アヴェロエス派が生まれた。
1184年にカリフが没して後継のヤアクーブ・マンスールが立つと、1195年ごろまでにその支持を失い、法廷で教説を非難されて著作の焼却を命じられ、ルセーナへ追放された。初期の伝記作家は、著作にカリフを侮辱する可能性のある箇所があったためとするが、現代の学者は政治的な理由と見ている。約二年後にマラケシュの宮廷へ復帰して信頼を回復し、まもなく1198年12月に没した。遺体は当初北アフリカに葬られ、のちにコルドバへ移された。その葬列にはのちの大神秘家イブン・アラビーも居合わせ、棺を載せた荷馬の反対側に、釣り合いを取るために著作が積まれていたと書き残している。
同じ年に亡くなった人物
- グリエルモ3世 (1198年没)
- ローリー・オコナー (1198年)
- ケレスティヌス3世 (ローマ教皇) (1198年没)
- コスタンツァ (シチリア女王) (1198年没)
- アル=アズィーズ・ウスマーン (1198年没)
同じ地域に関係する人物
- ユースフ2世 (ムワッヒド朝) (1224年没)
- ユースフ・イブン=タシュフィーン (1106年没)
- ヤアクーブ・マンスール (1199年没)
- イブン・トゥーマルト (1130年没)
- ジャン・ルフェーブル (2004年没)