HISTORICAL PERSON · 1199年没

ヤアクーブ・マンスール

ムワッヒド朝カリフとしてアラルコスの戦いでカスティーリャ王アルフォンソ8世を破り最大版図を実現する一方、灌漑整備や塔の建設で国内を発展させた。

生涯
1199年没
死亡地
モロッコ王国(マラケシュ=タンシフト=アルハウズ地方 / マラケシュ)
出生地
ムワッヒド朝
出典
世界地図
モロッコ王国(マラケシュ=タンシフト=アルハウズ地方)

伝記

ヤアクーブ・マンスールは、1160年に生まれ、1199年1月23日に没した、ムワッヒド朝の第3代カリフで、1184年から1199年まで在位した。第2代君主アブー・ヤアクーブ・ユースフ1世の子で、母はキリスト教徒の女奴隷であり、シルヴェスの領主から父に贈られたとされる。ポルトガルの史書では、ミラモリンとも呼ばれる。父の生前には、セビリアの統治を委ねられ、アンダルスに駐在していた。1184年のサンタレン包囲戦に従軍し、包囲を解いてセビリアへ戻る途中で、父が戦傷により亡くなった。父の死は、軍がセビリアに着くまで伏せられた。8月10日、セビリアで忠誠の誓いを受けてカリフに即位したが、有力な後継者と目されていたわけではなく、兄弟の一人、ムルシア総督のウマルをはじめ、異論もあった。それでも、勇敢さと活力で記憶され、父の宰相として国政に通じていたため、まもなく地位を固めた。9月には、アンダルスを発ってモロッコへ渡り、ラバトで改めて忠誠を誓われ、首都マラケシュに入った。

即位のころ、マヨルカ島にいたムラービト朝の後裔ガーニヤ族が、イフリーキヤに介入して反乱を扇動した。1184年から1185年にかけて、ガーニヤ族の一員がベジャイアやアルジェなどを占領して、ゲリラで、イフリーキヤと中央マグリブを揺るがした。マンスールは自ら遠征に向かい、占領地を取り戻して、1188年に平定した。しかしガーニヤ族の弟ヤフヤーが反乱を続け、イフリーキヤの不安定は収まらなかった。マンスールは、反乱を抑えて君主の専制的な支配を確立し、その治世に、ムワッヒド朝はイフリーキヤからトリポリまでを支配し、最大の版図を実現した。

アンダルスでも、1190年にジブラルタル海峡を渡り、同年と1191年の2度、ポルトガルに侵攻して、シルヴェス、パルメラ、アルカセル・ド・サルなどを奪い、ポルトガルと講和した。その後4年は、チュニジアの蜂起と自身の病気のため、アンダルスに渡れなかった。1195年には、自ら大軍を率いて海峡を渡り、アラルコスの戦いで、カスティーリャ王アルフォンソ8世の軍を破った。この勝利には、兵力で勝ることに加えて、事前にアルフォンソ8世の家臣を寝返らせて自軍に入れたことが効いた。戦後、レオン王アルフォンソ9世、ナバラ王サンチョ7世と同盟してカスティーリャを攻めさせ、1196年にプラセンシアを奪い、トレドを略奪した。1197年にもマドリードまで進軍した。カスティーリャは停戦を結び、マンスールは、キリスト教徒を打ち破った君主として賞賛された。「勝利者」を意味する尊称マンスールは、この勝利を記念してつけられたとされる。

ローマ教皇ケレスティヌス3世の和睦工作で、キリスト教諸国は停戦し、アルフォンソ8世から休戦を申し込まれたマンスールは、10年の休戦に応じた。チュニジアで再び反乱が起きたためであった。1198年3月にモロッコへ帰国して、息子のムハンマド・ナースィルを後継者に指名し、翌1199年に没した。晩年は、病気で体が弱り、瞑想に耽る生活を送ったという。

国内では、灌漑の整備による農業振興と、鉱山の金銀採掘と交易の拡大に努め、セビリアの大モスクのヒラルダの塔や、ラバトのハサン塔など、ムワッヒド朝を代表する建造物が建てられた。一方で、タウヒード主義を掲げて、これに反抗するムスリムを禁圧した。1197年には、哲学を異端として禁じ、哲学者イブン・ルシュドを追放した。

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