伝記
イブン・トゥーマルトは、1075年ごろから1080年ごろに生まれ、1130年に没したイスラム教の宗教指導者で、12世紀の北アフリカのマグリブで始まったムワッヒド運動の創始者である。アンティアトラス山中の村イーギーッリーズで生まれたと考えられ、両親はベルベル人マスムーダ族の支族の出で、父はハルガ族、母はマサッカーラ族に属した。比較的裕福な家に生まれたともいわれ、父はモスクの灯をともす係だったともされる。幼いころから勉学と祈祷を欠かさず、「たいまつ」を意味するアサフというあだ名で呼ばれた。
村のモスクで学んだのち、1107年ごろに遊学の旅に出た。経路や訪問地ははっきりしないが、コルドバや東方で学び、神学者ガザーリーの神学やアシュアリー学派の思想に触れたとされる。チュニジア、アルジェリアを経てモロッコに戻る帰途では、多くの法学者や哲学者と論争した。1118年ごろに北アフリカへ戻ると、村々で不道徳を戒め、イスラーム法に従った生活を送るよう説いた。厳格な教えは人々に受け入れられず、ベジャイア郊外のマッラーラの修養所に籠もり、そこで出会ったアブドゥルムウミンを弟子に迎えた。
二人の布教は計画的になり、支持者は次第に増えた。ムラービト朝の王都マラケシュに入ったトゥーマルトは、アミールのアリー・イブン・ユースフの前で、宮廷で影響力をもつ学者たちと論争して打ち負かした。マラケシュでは、着飾って馬に乗ったアリーの妹が従者を連れているところに出会い、弟子たちとともに彼女を落馬させたとも伝わる。その思想は危険視され、宰相マーリク・イブン・ウハイブが追放を主張したが、廷臣インターン・イブン・ウマルの勧めでマラケシュを脱出してアグマートへ移った。アリーからの出頭の要求を拒み、反抗の意思を明らかにした。
故郷に戻ると、預言者ムハンマドにならって洞窟で瞑想し、同じ啓示を受けたと印象づけた。1121年には、神の啓示を受けた無謬の指導者「マフディー」を称し、正義の回復のためムラービト朝打倒の軍事行動に加わるよう説いた。その軍は戦いに勝ち、スース川流域の大部分とマスムーダ族の指導者の大部分から支持を集めた。1123年または1125年にティンメルへ拠点を移し、アブドゥルムウミンが軍団をまとめる体制を整えた。1128年にはアル・ブハイラの戦いでムラービト朝の騎馬隊に大敗し、高弟の一人アル・バシーリー・アル・ワンシャリーを失った。
トゥーマルトは1130年に没したが、3年の間その死は伏せられ、その後アブドゥルムウミンが指導者の地位に就いた。遺体はティンメルに葬られ、16世紀の歴史家レオ・アフリカヌスは、その墓が崇拝されていたと書き残している。思想の中心は神の唯一性(タウヒード)の強調にあり、これに共鳴する人々は、唯一神の信者を意味するムワッヒドと呼ばれた。神の属性を否定し、ムラービト朝を神を人間になぞらえる集団として弾劾した。ベルベル語で著述し、マスムーダ族の教育にもあたって、しばしばアラビア語でクルアーンを暗唱させた。政治の面でも、ベルベル人の伝統どおり、会議での有力者の助言を尊重したという。指導者を継いだアブドゥルムウミンは、のちにムワッヒド朝を創始した。
同じ年に亡くなった人物
- シグル1世 (ノルウェー王) (1130年)
- 李唐 (1130年)
- ミラレパ (1130年代没)
- ジゼル・ド・ブルゴーニュ (サヴォイア伯妃) (1130年代没)
- イルネリウス (1130年没)
同じ地域に関係する人物
- アル=ムータミド・イブン・アッバード (1095年没)
- アブドゥル・ワーヒド1世 (1224年没)
- ムーレイ・アル=ラシード (1672年没)
- イブン・トファイル (1185年没)
- イスハーク・イブン・アリー (1147年没)