伝記
アル=アズィーズ・ウスマーンは、アイユーブ朝の第2代スルタンで、サラーフッディーン(サラディン)の次男である。兄にアル=アフダルがいる。1172年1月7日にカイロで生まれた。1171年ごろとする記述もある。イマードゥッディーン・アル=イスファハーニーによれば、サラーフッディーンが最もひいきにした息子だった。1179年に、アズィーズと兄弟、叔父アーディルの息子たちの割礼が行われたとき、7000頭の羊がほふられ、大量の菓子がふるまわれた。1184年、父は、甥のタキーユッディーン・ウマルを後見人として、アズィーズをエジプトの統治者に任じた。1187年の夏、アスカロンを攻める父のもとへシリアへ向かい、合流した。エルサレムの奪還を見届けたのち、カイロへ戻った。
1193年に父が没すると、生前から治めていたカイロを受け継いだ。しかし、ダマスカスを押さえた兄アフダルや、アレッポの弟ザーヒルらに父の遺領が分けられており、状況は流動的だった。アフダルは、宰相ナスルッラー・イブン・アルアスィールの勧めで、父の代からの旧臣を冷遇し、彼らはエジプトのアズィーズのもとへ走った。サラーフッディーンの宰相だったファーディルもその一人である。1194年、アズィーズはシリアへ攻め込んでダマスカスを囲み、アフダルに、貨幣とフトバに自分の名を入れる権利を求めた。これはスルタン権の象徴で、周辺のアイユーブ家の君侯は危機感を抱き、叔父アーディルらが多くアフダルについたため、アズィーズは和解に転じた。それぞれが従来の領地を保つ合意ができ、アズィーズはエジプトに加えて、エルサレムとパレスチナ周辺を確保した。
1195年にも、アズィーズはダマスカスを奪おうとシリア侵攻の準備を進めたが、かえってアフダルとアーディルに先手を打たれ、自領へ攻め込まれた。アズィーズはエルサレムを失い、ビルバイスの攻防は膠着した。アフダルはアーディルの勧めで交渉に入り、ファーディルとの話し合いの結果、アズィーズはエルサレムと周辺を正式にアフダルに譲り、アーディルがエジプトに居座るのも認めざるをえなかった。1196年、アフダルと協力してきたアーディルがアズィーズに乗り換える方針を固め、アズィーズはアーディルとともにダマスカスへ侵攻して、アーディルが町を奪うのを助けた。アフダルはサルハドへ退いた。アズィーズは最高位のスルタンの称号を受けたが、本当の主はアーディルだったともいわれる。治世のうちに、ギザのピラミッドを壊そうとしたが、作業の大きさに断念し、メンカウラー王のピラミッドに傷をつけた。
1198年、狩りの最中の落馬事故が原因で、カイロに戻った後に死去した。事故の場所は、アレクサンドリアとも、ピラミッド近くのオオカミ狩りともいわれる。11月22日に没し、墓はカイロのシャーフィイー廟の隣にある。子のアル=マンスール・ナースィルッディーンが跡を継いだ。歴史家マクリーズィーは、アズィーズはカイロでかなり苦しい状況にあり、財源も不足していたが、民衆に対する公正なふるまいと寛大さ、親しみやすさのために、愛されていたと評している。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・ルシュド (1198年没)
- ローリー・オコナー (1198年)
- Abu Madyan (1198年)
- ケレスティヌス3世 (ローマ教皇) (1198年没)
- グリエルモ3世 (1198年没)
同じ地域に関係する人物
- イブン・タグリービルディー (1470年没)
- ナッサー・エル・ソンバティ (2013年没)
- ファティア・エンクルマ (2007年没)
- ザーヒル (1036年没)
- エミール・バヤール (1891年没)