HISTORICAL PERSON · 1198年没

アル=アズィーズ・ウスマーン

サラディンの次男としてエジプトを相続し、兄アフダルとダマスカスの支配権を巡って争ったが、和解と再侵攻を繰り返した末に落馬事故で急死した。

生涯
1198年没
死亡地
—
出生地
エジプト・アラブ共和国(カイロ県 / カイロ)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(カイロ県)

伝記

アル=アズィーズ・ウスマーンは、アイユーブ朝の第2代スルタンで、サラーフッディーン(サラディン)の次男である。兄にアル=アフダルがいる。1172年1月7日にカイロで生まれた。1171年ごろとする記述もある。イマードゥッディーン・アル=イスファハーニーによれば、サラーフッディーンが最もひいきにした息子だった。1179年に、アズィーズと兄弟、叔父アーディルの息子たちの割礼が行われたとき、7000頭の羊がほふられ、大量の菓子がふるまわれた。1184年、父は、甥のタキーユッディーン・ウマルを後見人として、アズィーズをエジプトの統治者に任じた。1187年の夏、アスカロンを攻める父のもとへシリアへ向かい、合流した。エルサレムの奪還を見届けたのち、カイロへ戻った。

1193年に父が没すると、生前から治めていたカイロを受け継いだ。しかし、ダマスカスを押さえた兄アフダルや、アレッポの弟ザーヒルらに父の遺領が分けられており、状況は流動的だった。アフダルは、宰相ナスルッラー・イブン・アルアスィールの勧めで、父の代からの旧臣を冷遇し、彼らはエジプトのアズィーズのもとへ走った。サラーフッディーンの宰相だったファーディルもその一人である。1194年、アズィーズはシリアへ攻め込んでダマスカスを囲み、アフダルに、貨幣とフトバに自分の名を入れる権利を求めた。これはスルタン権の象徴で、周辺のアイユーブ家の君侯は危機感を抱き、叔父アーディルらが多くアフダルについたため、アズィーズは和解に転じた。それぞれが従来の領地を保つ合意ができ、アズィーズはエジプトに加えて、エルサレムとパレスチナ周辺を確保した。

1195年にも、アズィーズはダマスカスを奪おうとシリア侵攻の準備を進めたが、かえってアフダルとアーディルに先手を打たれ、自領へ攻め込まれた。アズィーズはエルサレムを失い、ビルバイスの攻防は膠着した。アフダルはアーディルの勧めで交渉に入り、ファーディルとの話し合いの結果、アズィーズはエルサレムと周辺を正式にアフダルに譲り、アーディルがエジプトに居座るのも認めざるをえなかった。1196年、アフダルと協力してきたアーディルがアズィーズに乗り換える方針を固め、アズィーズはアーディルとともにダマスカスへ侵攻して、アーディルが町を奪うのを助けた。アフダルはサルハドへ退いた。アズィーズは最高位のスルタンの称号を受けたが、本当の主はアーディルだったともいわれる。治世のうちに、ギザのピラミッドを壊そうとしたが、作業の大きさに断念し、メンカウラー王のピラミッドに傷をつけた。

1198年、狩りの最中の落馬事故が原因で、カイロに戻った後に死去した。事故の場所は、アレクサンドリアとも、ピラミッド近くのオオカミ狩りともいわれる。11月22日に没し、墓はカイロのシャーフィイー廟の隣にある。子のアル=マンスール・ナースィルッディーンが跡を継いだ。歴史家マクリーズィーは、アズィーズはカイロでかなり苦しい状況にあり、財源も不足していたが、民衆に対する公正なふるまいと寛大さ、親しみやすさのために、愛されていたと評している。

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